森のようちえん きらめき

大阪府和泉市で森のようちえんをつくろうとしたが、長男が拒否したため方針変更。 おうち森のようちえんを実践中

いやなことからは逃げろ

ツレがうつになりまして」を見ました。

あらすじ結末はこちら完全なネタバレを含む内容ですので、ご注意くださいね。↓

映画「ツレがうつになりまして。」ネタバレあらすじ結末 | hmhm

 

映画の中でツレが「ぼくは何もできないー」と泣く場面が何度となくでてきます。その姿がだんだんと子どものように見えてくるのです。何もできなくなって、自分なんていてもいなくてもいいんだと考えて悲しい気持ちになってしまう場面が見てて辛かったです。

 

きちんとするな 、あそべ

わたしは仕事が精神的につらかったとき、マンションの3階に住んでいました。家の前の廊下に立って、下を見下ろして、今死んじゃってもいいんじゃないかと考えたことが一度だけあります。

 

わたしは仕事でお客さんに怒鳴られたり、クレームに対応するのが怖くて、ズル休みばかりしていました。今考えれば、自分を守るために適切な行動でした。

 

でも当時は仕事に行けない自分が情けなくて、恥ずかしくて、ツレのようにわたしは何もできないと思っていました。仕事をやめてからも、ひきずってしまって、わたしは何もできないと悩んでいました。

 

【過去記事】お前は生きてるだけで、最高だ! - 森のようちえん きらめき

 

そのとき、わたしの家族たちが、わたしが元気で生きているなら良いと教えてくれました。あたりまえのように与えられていたその感覚が、ときに見えなくなってしまいます。「きちんとできる」わたしでないと価値がないと思ってしまします。

 


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そんなことありません。何もできなくてもいいです。生きているだけでおっけー。生きてるだけで丸儲けです。子育ても、家事も、仕事も、きちんとできなくておっけーです。

 

自分がきちんとしていると、こどもにもきちんとを強要してしまいます。生きて、元気で、今日もあそぶ。それをするのはこどもだけではありません。大人もみんな、生きて、元気で、今日もあそぶ。それが最高の一日です。

 

逆上がりできないくらいで死ぬな

大学在学時の就職活動中「いやなことからは逃げる」という名言をいった友だちがいました。その友だちは大学卒業時点で就職はせずに卒業していきました。そのころはなんて適当な奴だと思っていましたが、最近では彼のいっていたことがわたしにしっくりくるようになってきました。

 

日本人はいやなことを我慢してがんばることに美徳を見出す傾向があります。でもがまんして、がんばって、いやなことをやり遂げてなんになるでしょうか。あー終わったと思うだけです。そこに達成感などありません。やりたいことをやりとげる過程にある、おっくうなことはがんばればいいです。だってそれはやりたいことですから。

 


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たとえば、逆上がり。小学校のころ練習した覚えがある人も多いのでないでしょうか。わたしは逆上がりができなくて、放課後に友だちと練習した思い出があります。そのとき、先に逆上がりができるようになった友だちが先に帰り、あとに残った逆上がりができない組のわたしと友だちで「わたしたちって生きてる価値ないね」「しんだほうがいいかもね」という会話を交わしたことを覚えています。

 

小学校3年生のときのことでした。もちろん本気で死ぬ気はないのですが「みんなができることをできないひとはしんだほうがいい」という発想が怖いです。みんなと同じことができない自分を恥じる気持ちがこの頃から顕著に根付いていますね。

 

逆上がりなんてできなくてもいい、わたしは本を読むのが好きだから。と堂々と主張すればいいだけです。逆上がりしたくない人は他のことしてていいよーという授業になればいいのにと今では思います。

 


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「いやなことからは逃げる」名言です。逃げて、逃げて、逃げ続けて、いつかどうしても逃げたくないことに出会うはずです。そこまで逃げ続ければいいです。大事なのは自分を熱くする何かに出会うまで逃げ続ける「生き続ける」ことだけです。

 


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先日飛行機に乗ったときに、すごく揺れたので死ぬかもと思いました。こどもたちが死んだらいやだと思いました。毎日、ついああしろ、こうしろ、どうして何回も言わせるんだとこどもにいってしまいます。でも、飛行機に乗ったあとは生きていてくれるだけでオールおっけーだわと思えます。飛行機バンザイ。

 


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こどもには「生きているだけでおっけー」「いやなことからは逃げろ」と伝えていきます。

 

とりあえず、洗髪ぎらいの長男にいいます。

生きているだけでおっけーだ。

いやなことからは逃げろ。

でもそろそろ髪は洗え。

矛盾!

 

子どもがどこで学ぶのか、それを決めるのは親じゃない

サドベリースクールをご存知でしょうか。

・子どもは自分に必要な力を自分で学ぶことが出来る
・大人は子どもの内なる力を信じている
・子どもは学びたいと動機を持った時、一番良く学ぶ
・時間割・テストなし
・異年齢ミックス
・子どもたちが大人と対等な一票を持ち、ミーティングを行う

引用:サドベリースクールってどんな学校? | よねすけブログ

 

私はこの学校の存在を知ったときに度肝を抜かれました。時間割がない、テストがない、自分で自分のしたいことが決められるなんて今までの学校の概念をぶっとばされました。

 

私は森のようちえんが好きで、なぜ森のようちえんが好きなのかというと「子どもの意思を尊重」する環境であるからでした。森のようちえんの魅力は自然と共にあることが注目されがちですが、子どもがしたいことを子どもが決めて、行動する自由が認められているところです。


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それは本来誰しもが持っている自由のはずですが、子どもは特に制限されがちです。子どもは生まれたときから、ああしなさい、こうしなさいと言われて育ち、大人の言うことを聞かなければならないが子どもに刷り込まれています。

 

幼稚園、小学校、中学校、高校、大学と、先生という存在に今日はこれをしましょう、あれをしましょうと与えられ続ける教育を当然のように受けてきました。サドベリースクールという存在を知って、最初は特異に感じたその教育ですが、わたしが重要視する「子どもの中の自然」のまま育っていくには最適な学校なのではないかと考えるようになりました。

 

まじめなことがコンプレック

わたしは学校というものに所属した間の期間は優等生といわれる部類でした。勉強はできる方でしたし、先生の言うこともよく聞いて、先生からの信頼も厚かったです。わたしは自分は優秀だと自信満々のまま学校を卒業して、社会人になり、そこで精神的につぶれました。

 

【過去記事】お前は生きてるだけで、最高だ! - 森のようちえん きらめき

 

今では私はまじめであったことがコンプレックスです。先生の言う通りに動くことができる。というのは命令に従うことができるということです。命令に従うことが得意だったので、自分で考えるということはしてきませんでした。

 

なぜ勉強するのか、なぜ学校に通うのか、そんな根本の部分を考えることなく、与えられた課題をこなしただけです。義務教育をまじめにこなしたところで、社会に出て困らないようになるのかといえば、そんなことはありません。

 


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義務教育というのは戦後時代の名残です。戦後は国を復興するためにたくさんの労働力が必要でした。命令に従順に働くロボットのような人材が、大量に必要な時代だったのです。学校教育はそのために導入された教育方法です。言われたようにできるようになりなさいと教える学校は刻々と変わっていく今の時代に、昔のまま変わらないでいます。

 

運動会はその名残の象徴です。隊列を組んで、行進して入場し、観客のために先生の言うとおりの演技をこなす。なんか怖くないですか。私は怖いです。

 

運動会は海外から見ると日本特有の文化で、団体行動のクオリティの高さが評価もされているのだそうです。和を大切にする日本は素晴らしいですが、運動会はやりたい人がやりたいようにやったらいいです。全員強制参加はおかしいです。やりたくない人もいます。今では何の疑問も持たずに先生のいうとおり、運動会のパフォーマンス練習をしていた自分に、大丈夫かと思います。自分の頭で考えているのかと疑問です。

 

学びの場はひとつではない

話がそれましたが、義務教育が悪いというわけではありません。私が問題視しているのは義務教育があまりに浸透しすぎて、他の選択肢が見えないようになっているという事実です。義務教育というのは、子どもは学校へ行かなければならないという、子どもへの義務ではありません。子どもには勉強できる環境を与える義務という親の義務です。

 

だから必ずしも地域の小学校に行かなければならないわけではありません。フリースクールや私立小学校、サドベリースクールや今ではホームスクールというのもあります。地域の小学校に通うことがさだめのように思っていますが、そうではありません。たくさんの選択肢から選ぶことができるのです。

 


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子どもにはそのことを真摯に伝えたいです。地域の小学校はもちろん、他にもたくさんの学校が存在することを理解した上で、自分の進路を決めてもらいたいです。子どもにそんな責任を負わすのはどうかと思う人は子どもをなめています。

 

子どもには自分で決める力があります。それをできないと思っているのは、あなたが子どもを信頼していないからです。そして、もし親が希望する学校に進まなかったときのことを怖がっています。

 

私は長男が公立の幼稚園にすすむことを実は快く思っていません。でも、長男が自分で言い出して、自分で決めたことですから、協力します。私は子どもの決定を尊重します。自分で決めて、行ってみて、それで何かが違うと思ったら、また考え直せばいいです。大事なのは子どもが自分で決めること、親は子どもの決定権を奪わないことです。子どもを心配するのは簡単です。子どもを信頼するのはとても勇気がいります。

 


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子どもと親は違う人間です。見える世界も、触覚も味覚も、考え方も感じ方も、好きも嫌いもすべてちがいます。それはあたり前のようで、あたり前に奪ってるものでもあります。私も修行中の身です。すぐに子どもを自分の思い通りに動かそうとしてしまいます。

 

寒い日に上着はきない!裸足であるく!と主張する長男次男の決定を受け入れることの難しさはハンパないです。風邪ひいたら大変なのママなんですけど!と思いますが、風邪をひいてしんどい思いをして責任をとるのも長男次男のわけです。上着きてよ!と言うと、ママなんかいもうるさい!と言われる始末です。ごめんなさい。

 

どのくらい寒いと上着が必要か、くつをはくのは何のためか学んでいる最中ですよね。子どもがどこでどう学ぶのか、それを決めるのは親じゃない。

 

決めるのはきみです。

 


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「みんなと同じでないとダメ」という刷り込み

私は森のようちえんが大好きなのですが、長男は森のようちえんを拒否しました。その後はおうち森のようちえんで日々を過ごしています。その好き放題生きている長男、4月から幼稚園に通います。昨年10月のある日、本人から急に「ようちえんいくわ。あのおうちのちかくの」と発言がありました。

 

本当に突然言い出したので驚いたのを覚えています。しかも漠然と幼稚園に行きたいと言い出したのではなく、どの幼稚園かも指定済みでした。他の幼稚園の園庭開放にも行ったことがあるので、幼稚園にも種類があることは長男は知っています。

 

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その中から、自分で選んで決定したので、そうですかという感じでした。私は森のようちえんに通ってもらいたいと思っていましたが、それは私の希望で本人の意思ではないことを十分に学んでいたあとだったので、すんなりと受け入れることができました。

 

【過去記事】我々がすることと同じくらい、我々がしないことを私は誇りに思う。 - 森のようちえん きらめき

 

その発言をする以前は、幼稚園行くと言っては、すぐに行かないと言い出すということを繰り返していました。しかし、10月に自分から明言した後、行かないとは一度も言っていません。本人が自分で決めたことというのは、意思が固いです。むしろ「まま、○○がいないと泣いちゃう?」と聞いてきます。私は笑って泣かないよと答えていますが、実は泣くかもしれません。

 

みんな同じお道具箱を持つ必要はない

私は幼稚園に行ってもらうのは実は気が進みません。その幼稚園は自由な校風が売りで、通っている子たちのお母さんに知り合いがたくさんいます。どのお母さんも満足していて、子どもは楽しそうだと評判です。子どもの個性を大事にしますと銘打っていて先生たちも優しそうで、明るい雰囲気が伝わってきます。

 

長男が行きたいと言い出したとき、幼稚園入園の手続きのは締め切っていました。ですが、問い合わせてみると空きがあるということで入園できることになりました。その後説明会を受けたあとに聞きたいことがあったので、個別で面談の時間を取ってもらいました。

 

園長先生に副園長先生対応という警戒された雰囲気の中で、私は話始めました。「大きさは指定に合わすので、子どもの好きな柄のお道具箱を買ってきてもいいか」と聞きました。説明会で、お下がりがある以外は原則同じ物を購入してくださいと言われました。でも、私は嫌だったのです。全員と同じお道具箱、同じハサミ、同じクレヨン。お金を出して購入するのだから、子どもの好きなものを買うのは当然だと思います。でも、先生の答えはNOでした。

 

先生の主張は

みんな同じ物でないと、指導がしにくい。

安全基準を満たしたものを選んでいるのでお子さんに使いやすいはず。

自分だけみんなと同じ物でないと、本人が気にすると思う

 

とのお話でした。どれも納得のいかないものばかりでした。指導がしにくいというのは、個別対応できないほどの人数を相手にしている先生の都合です。そして文房具屋に並んでいるものは安全基準を満たしています。みんなと同じでないと本人が気にするかもしれないというのは、みんな違っていることが当然という前提を覆しているその規則自体がおかしいはずです。一人ひとり違う人間であり、一人ひとり違うものが好きで、それは持ち物やファッションなどに現れるものです。それもひとつの自己表現です。

 


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子どもが幼稚園で使うものを「揃えて」購入させるのは、その品物を販売をする店と幼稚園の間に利害関係があるからです。購入されなくなると販売元が困るので、幼稚園はその備品を売り続けます。結局、子どものためにという傘を被って商売をしているだけです。気に入りませんでした。

 

 

私のこだわりは「それだけ」ではない

私一人が意見を申したところでその状態が変わらないことも心得ていました。しばらく話をしましたが、先生たちは取り付く島もないようなので引きました。子どもがこれからやっていく場所であまり暴れるのはよくありません。これが子どもを人質にとられている状態というわけですね。

 

そして話が終わり、私が備品を購入するという流れで帰ろうかとなると先生は言いました。「それだけですか?」と。傷つきました。私にとってそれは重要なことだったので、それだけと言われてしまったことに悲しくなってしまいました。何が大切かはその人によって違います。先生も深い意味で口にしたわけではないことはわかっています。優しい先生だということもわかっています。


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でも私の気持ち、そのような他人からは些細だと思われるこだわりを大切にしていることを知って欲しかったのでお話ししたのです。他人から見れば無駄なことを、子どもが大切にしていることはたくさんあります。それを一緒に大切にする視点も取り入れてもらえばいいなと思います。

 

「みんなと同じ」を刷り込まないで

持ち物のことは親のこだわりであって、長男のこだわりではありません。長男は持ち物なんて何でもいいのです。でも、そんな持ち物の些細なところから「みんな同じでないとおかしい」という根本を子どもたちに植え付けているのではないでしょうか。みんな違うのは当然のことです。みんなと同じでないとダメだという意識の刷り込みは子どもに長い間影響を与えます。

 

例えば、

自分はひらがなを覚えるのがみんなより遅い。みんなと同じようにできない自分はだめだ

自分は受験に落ちてしまった。みんなと同じように高校に行けない自分はだめだ

自分は仕事を辞めてしまった。みんなと同じように働けない自分はだめだ

 

子どもが所属する集団は子どもの小さな社会です。大きくなるほど世界が広いことに気づくはずです。学校社会を卒業して初めて、学校というのは小さな枠であったと気づくのです。学校や教育機関は狭い箱です。その中の持ち物というさらにさらに小さなことですが、そんなところからみんなと同じでないとおかしい意識が植え付けられることに私は少しおびえています。

 


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私は長男に伝え続けます。みんなと同じでなくていいと、好きに生きていいと、君は生きているだけで最高だと。でもやっぱり所属する小さな社会の「みんな」がいうことの方が気になることもあるのだと思います。幼稚園は楽しいところでしょう。次から次へと楽しいイベントが用意されているのですから。幼稚園はいろいろな遊びがあるという機会を与える場です。そこでこれをやりたいか、やりたくないかを選ばせてもらいたいです。

 

今から歌を歌う時間ですよーはどう考えてもおかしいです。今は外で遊びたいから嫌だ、他の遊びをしたいというときは必ずあります。その選択肢を示してもらいたいです。集団に準じて自分の意思を押し殺す訓練にはなんの意味もありません。自分の意思、NOを伝えることができる方がよっぽど子どもの将来に役立ちます。

 


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長男には好きなことは好きなだけやり、やりたくないことはNOという。家にいるときのようなあるがままの姿で幼稚園でもやっていってもらいたいと思います。みんなと同じように歌ったり踊ったりできません。それは大いに歓迎です。むしろ私は幼稚園の中で、長男が「みんな」にそれなりに合わせて、それなりな毎日にならないように願っています。


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プレゼント余ってます!

前回の長崎旅行でのお土産プレゼント企画。この葉書を欲しいひとに送ります!と言いましたが。

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誰も応募来てません!さびしい!もらってくれると私が喜びますので、もしもらってもいいよという心の広い方がいらっしゃいましたら、ご連絡ください!

miraimikiki0201@gmail.com

 

 

 

 

 

子どもは回り道の天才だ

1泊2日で長崎に旅行に行ってきました。飛行機のセールがあったので、特に長崎に行きたい理由はありませんでしたが、とにかく行こうと決めて行きました。ちなみに今もpeachのセールやってます。次は松山に行こうかと思います。気になる方は下からどうぞ。

 

 【peach 春の先取りセール】【公式】Peach | Peach Aviation

 

 予定通りいかないと不安

私は旅行に行くときはあらかじめ、行先を決めて、そのルートに沿いながら行動するのが好きです。予定通りに動くのが基本的に好きなのです。でも子どもと一緒に行くと予定通りにはいきません。疲れてくると機嫌が悪くなるので、本当は行きたかったところを我慢することもあります。

 
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今回は長崎県波佐見町に行ってきました。調べたところ、焼き物の町で、おしゃれな食器がたくさんあって、雰囲気の良いカフェやレストランがあって、子どもたちが遊べそうな公園もあるという情報でした。移動が増えると子どもたちは疲れるので、小さな町の中でたくさん遊べそうなこの町に行ってきました。しかし、その町を訪れた水曜日、ほとんどのお店が定休日でした。がっかりしました。

 

早々にその町を立ち去り、どうしようかと思っていたら夫は時間があるから遠回りして行こうと提案してくれました。高速道路ではなく、地道を走って行くことにしたのです。しばらく行くと嬉野温泉の看板を発見しました。そして佐賀県の看板も。長崎県に遊びに来たつもりでしたが、うっかり佐賀県入りしていました。何かお得感です。

 

朝からもう帰りたいコールをしていた長男に、ダメもとで温泉入る?と聞くと「いーねー!」とノリノリ。意外にのってくれたので、観光協会に入って情報を聞きました。近くに良い露天風呂があると聞き、全く予定になかった露天風呂に行ってきました。結果から言うと、山の中の静かな温泉で、大当たりでした。

 


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私は女の事情で温泉には入れず、外で待機していたのですが、それもまた良かったです。夫は子ども2人を露天風呂に入れていて大変だったのですが、私は旅行先で一人の時間を得るという最高の贅沢を楽しみました。風に揺れる森と、流れる川を眺めながら、部屋の中に差し込む日差しで暖を取り、コーヒーを飲む。最高のひと時を得ることがきました。

 


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子どもは回り道の天才

私は予定調和を好んでしまう傾向があります。子どもとの生活でもそうです。予定通りにいかない、思い通りにいかないとイラッときます。

 

【過去記事】思い通りにいかないことがイラッとの正体 - 森のようちえん きらめき

 

でも今回のように行き当たりばったりが面白いことがたくさんあります。回り道は悪くありません。子どもは大人からみると無駄なことばかりして、回り道ばかりしています。子どもの行動を見ていると、もっとこうすれば効率が良いのにと思ってしまうことがたくさんあります。


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たまたま入ったPAの景色が素晴らしかった

 

でも子どもはそんな回り道が楽しくて、予定通りにいかないぶっつけのチャレンジが面白いことを本能的に知っています。子どもは大人がなくしてしまった楽しみをいっぱい持っています。最初から子どもは全てを持っているそうです。大人になるうちに、偏見や常識や知識を得て、世界がどんどん自分がつくった小さな枠にはまっていってしまいます。私たち大人は、楽しみの限りを持っている子どもから学べることがたくさんあります

 

私も子どものように、わからないがわくわくになる、わからないことをああかもしれない、こうかもしれないとずっと考える楽しさを味わっていきたいと思います。私はすぐに答えを求めてしまう性質なので、わからないを楽しめる余白を持ちたいです。 


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空白には空白の面白さがあります。何も決まっていないわくわくがあります。私は先が見えていることに安心する気持ちがあります。でも予定されているということは本当に心から楽しいことなのかと考えます。子どもたちはどう変わっていくかわかりません。それを成長が楽しみだと言います。これから変わって行く姿、成長していく姿は予定されているものではなく、先がわからないから面白いのです。

 

私もずっと変わって、成長していきたいです。子どもたちと一緒にずっと変わっていく大人でありたいです。先がわかっているなんてつまらない。先のわからない自分を楽しめる、そんなかっこいい大人になろうと思った旅でした。

 

 

誰かにプレゼントしてみたい

 今回、長崎の旅行のお土産屋さんで素敵な葉書を見つけました。すごく良いなと思ったので、誰にあげるでもなく、たくさん買いました。いつもこのブログを読んでくれる方に感謝の気持ちを込めて、この葉書をプレゼントしたいなと思います。


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もし、欲しいという方がいらっしゃいましたら、メールください。心を込めてお送りします。

 

miraimikiki0201@gmail.com

 

 

 

 

大人が「おうち森のようちえん」に入園すると起こる3つのこと

「おうち森のようちえん」とは、私がつくった造語です。大人も子どもも共に好きなことを好きなだけする、何もするべきことのない時間が溢れた空間のことです。つまり、家で暇につかりまくる!ということです。おうちで今日から実践できます。

 

我が家は長男が自然の中をあまり好まないので、本来の森のようちえんのように、自然の中で過ごすことはできません。でも、森のようちえんで大切にしている「大人のかかわり方」や「子どもの自然な姿」を大切にしながら、森のようちえんの精神でおうちの中で過ごす。それがおうち森のようちえんです。ややこしい。

 

【過去記事】おうち森のようちえん開園 - 森のようちえん きらめき

 

「おうち森のようちえん」と自然派のような銘を打ちながら、一日の朝はだいたいゲームかyoutubeなどのデジタルな遊びから始まるギャップに溢れています。そんなおうち森のようちえんで過ごす私たち親子には、しなければならないこともなく、毎日したいことをして暮らしています。しなければならないことのない生活を続けていると、自分のしたいことが何なのか考える時間が増えます。人間って何をしてもいいし、何もしなくてもいいんだなと知ります。

 


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食べたいときに食べて、寝たいときに寝る。そして、遊びたいだけ遊ぶ。それは小さな子ども時代だけの特権かと思っていましたが、そうでもありません。本当は大人にも、誰にでもできることなのです。

 

大人は会社で働かなければならない、家事をしなくてはならないと思っているのは自分の中の、誰かから教えられた常識です。おうち森のようちえんとは自分の中の自然のまま過ごすということです。おうち森のようちえんで過ごしている私に起こった3つのことをお伝えします。

 

①自分の人生を見つめ直すことができる

私はおうち森のようちえん活動のために(=暇につかりまくるために)家事を最小限に抑えています。食器洗浄機、乾燥機付全自動洗濯機、ルンバを導入して、大半はロボットたちに丸投げ。ご飯は一品しか作らないこともあり、服の片付けに追われないように衣類も3着程度を着まわしです。そうしてつくった時間で自分の好きなことをしています。

 

暇につかりまくると考えるようになります。自分が欲しい生活の形とはどのようなものか。それは働き方、生き方を問うところから始まります。ふりかえって考えて、自分の本当に大切なものを考える時間を持たないと、何も考えないうちに、あっという間に人生は終わってしまいます。

 

何かを得たいと思うなら、何かを手放さないといけません。私は家事のクオリティを下げることで、自分の時間を得ています。あなたが今していることは、本当に自分のやりたいことですか。あなたの望んだ生活の形、あなたの望んだ生き方ですか。おうち森のようちえんにある暇な時間は、そう自分に問いかけることのできる時間です。

 

②何かをつくってみたくなる

大人になってから暇につかりまくったことはありますか。私は子どもを産んでから暇になったというと誤解を与えそうですが、外から与えられるやるべきことはなくなった感覚があります。初めは手探りなので、いろんなことをし始めました。とにかく本を読みました。子育て方法論や海外の教育の姿などとにかく子どもに関する本を読みまくりました。その中で森のようちえんに出会って感銘を受けます。

 

森のようちえんの真似をして長男と二人でとにかく野外で遊びまくってみました。長男を外に連れ出す時間を「つくるため」に、私は家事の時間の最適化にはかなり力を入れました。そのために断捨離や収納術や家事術などの知識を得て実践を繰り返してきました。子育てはクリエイティブです。

 

私は時間を「つくって」いたのです。それから、自分で森のようちえんきらめきのサークルを「つくって」、長男とぶつかって、今はおうち森のようちえんを「つくった」という流れを辿っています。

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最近の生活では子どもたちと3人で過ごす時間は1日に11時間程度ですが、その間にとる家事の時間は一日に1時間くらいです。そうなってくると、やはり感覚的には暇です。自分でつくりだしたその暇の時間につかりまくると、読書やネットサーフィンにもいずれ飽きて、不思議と何かを「つくりたく」なります。

 

休日になると、ショッピングモールに出かけて、ショッピングや外食をしてお金を使うという楽しみがあります。でも私は最近その休日の過ごし方にはうんざりしてきました。消費する楽しみというものに飽きました。欲しい服も靴も何もない、高いお金を払って大した量の野菜も食べられない外食にも満足感を得られません。休日の人ごみにもうんざりです。

 

何かを買って、それを所有する活動には飽きました。たくさんのものに囲まれて、消費に疲れてしまいました。何かをつくるという行為の方がずっと面白いと感じています。何かをつくるための材料を探しているときはわくわくします。暇で暇でしょうがなくなると、自分で何かを「つくりたくなる」のです

 

最近は文章をつくることも楽しくて、ろうそくをつくってみたり、新しい料理に挑戦してみたりしました。料理も家事のルーチンワークとしてこなすのではなく、私の創作物としてつくると楽しいです。

 

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 手づくりろうそく。長男次男は興味がなく、私と姪っ子でつくった

 

暇な時間、ゆとりのある時間、空白のある時間、それが何かをつくりだすための原動力になります。今現代に根付いている文化、芸術はどれもありあまった空白から人間が生み出した人間の財産です。

 

③子どもとの関係が良くなる

暇になると、自分の好きなことを十分にしているので不満がありません。子どものすることにもいちいち目くじら立てることもありません。暇は余白、心の余裕です。心に余裕があれば、子どもに優しくなれます。

 

特に子どもには空白の時間が必要だと思います。学校では先生の決めた指導内容をこなし、決まったカリキュラムの間の自由時間を楽しみます。帰ってきたら習い事、習い事が終われば明日のために早く就寝。子どもたちは意外と多忙です。カリキュラムや習い事はそれ自体楽しいものだと思います。新しく入ってくる知識はそれだけで楽しいものです。

 

でもそれは、外から与えられた刺激で、エンターテイメントのようなものです。自分の中から湧き出す衝動に従いながら、何かをつくりだしてみたり、探してみたりする楽しさとはまた違います。私はこの中から湧き出す何か「創造性」を大事にしたいです。

 


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子どもはみんな創造性の塊です。子どものすること、創造性を阻まなければ子どもは自然とつくっていきます。親は木の上に立って見守るだけです。

 

親はついつい口を出したがる生き物です。子どもに余計な指図をしないよう、むしろ親も、自分の好きなことをしまくる「おうち森のようちえん」で楽しく過ごしていましょう。親も子どもも好きなことを、好きなようにしていればみんなハッピーです。暇につかりまくる「おうち森のようちえん」ぜひ入園して体験してみてください。


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あなたと私は違っているだけ。

ディズニー映画「ズートピア」を見ました。さまざまな動物が一つの場所で暮らしている様は見ているだけで楽しかったです。そこに出てくる超個性派のキャラクターにナマケモノがいます。ものすごーくゆっくりした動作で事務作業をこなす様子が面白いのですが、そのスロー加減に主人公のうさぎは待ちきれません。何度も何度も早くと言い、何度も同じ内容を指示します。その様子が、親が子を待ちきれずに何度も声掛けする様子に似ているなと思いました。

 

子どもの自然、私の自然

子どもには子どもの時間の流れがあります。そもそも時間という概念がありません。長男も次男も朝起きたら、好きなことを何時までではなく、気が済むまでしています。

youtubeを見たり、ゲームをしたり、ままごとをしたりと、毎日一緒のようですが、自分のしたいことをそのときに選んでしています。その自分の中に流れるタイミングのみで生きている姿はとても自然で、私は好きです。

 

子育ては理想と現実の間を行ったり来たりするなと毎日思います。子どもが自分の思いのままに過ごしている自然な姿をもっと見ていたいと思う気持ちも本当で、自分のことしか考えないんだから!とイラッとしてしまう気持ちも本当です。昨日は特に何も思わなかったその行為が、今日は腹が立つこともよくあります。

 

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私は完璧ではなく、揺れ幅があって、気持ち広くあるときもあれば、狭くてすぐに怒ってしまうときもあります。そうやって波打っているのが気持ちの常です。その波幅をできるだけ穏やかにしていたいなとは思っていますが、揺れる私も私です。それも私の自然です。子どもの自然の姿を快く思うように、私の自然も快く思ってあげたいです。自分にも、子どもにも白か黒かではなく、その間にあるグラデーションを大事に思えるようになりたいです。

Mr.Childrenの「Gift」という曲の中に「白と黒の間に無限の色が広がっている」という歌詞があります。その心持ちが好きです。

 

 

 間違っているのではない。あなたと私は違っているだけ。

私は森のようちえんが大好きで、子どもたちには外で元気に自然と戯れてもらいたいという願望があります。

 

【過去記事】

森のようちえん大好き自然派の私が、子どもにデジタル機器を無制限解禁した話 - 森のようちえん きらめき

 

でも長男は家の中でyoutubeなどのデジタルな遊びをしているのが大好きです。2年間の葛藤を経て、長男に外で遊ぶように促すことは減りましたが、実は今もデジタル機器に囲まれる長男の姿を完全には受け入れていません。長男はそれが好きなんだなとは知ってはいます。でも、画面ばっかり見てたら病気になるだろ!と突っ込みたい気持ちはいつも備えています。彼の好みを完全に受け入れて、理解する必要はないのだと思います。それをかたくなに阻むことをしなければいいのです。

 
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冒頭で話したズートピアの話も同じで、いろんな動物が一緒に暮らす街は理想的に思えますが、実は問題もあります。でも同じ色に染まる必要はなくて、互いの違いを認め合うことが必要だという内容になっています。

 

自分と相手の考えがぶつかるとき、相手が間違っているのではなく、私と相手は違っているのだと考えたいです。ナマケモノは超のんびり特性です。それを社会は知っていながら、己のペースで事務作業を行っていることを認めています。事務所には行列はできていますが、そんなものだと思っているのでしょう。ナマケモノの特性を変えようとするのではなく、そのまま働いている姿を見て、いいなーと思ったのです。

 


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私も長男を変えようとするのはやめました。デジタルな毎日にイラッとくることもあります。そんな自分がダメだなーと思うこともあります。でも、それを克服する必要もありません。私も長男もそのままでいいんです。それぞれが、そのままで毎日のんびり過ごしていきたいです。それこそナマケモノのように、ありのままに。

 

 

 

子どもといえど、人との付き合い

今日は寒いねーと長男に言うと、寒いから一日おうちでいようかと的確な答えが返ってきました。彼は雪国に住んだら、リアルな冬ごもりを好むのだろうなと思いました。

 

子どもといえど、人との付き合い

最近は長男と私の話し合いの結果、一日2時間程度の外出が基本です。寒いし、家で画面とお付き合いするのが大好きな長男は一日家にいたいのですが、私は一日に一度は外に出たい。どちらかに完璧に合わすことはできません。2人とも我慢できませんから。お互いに完璧に合わす必要はありません。話し合うことが必要です。

 
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 私の意向に合わせて、長男はしぶしぶ出かけてくれます。しかし、その出発に至るまで、彼は大体3時間程度は画面の中で遊んでいます。私は午前中から活動するのが好きなのですが、彼に合わせて昼まで出発を我慢しています。どちらかの意見を頑なに通せば無理が出ます。だからお互いに譲れるラインというのを日々模索中です。そのための話し合いが毎日大変ですが、子ども相手といえど、そこは人との付き合いですからがんばります。

 

指示ばかりする人とは楽しく過ごせない

意識しないでいると、子どもにかける言葉が指示ばかりになっていることがあります。~した?という確認や、~してという指示、~してはいけないという禁止。思い返すとそのようなやりとりばかりになっている日というのがあります。何て面白みのない会話だろうと愕然とします。こんなことばかり言ってくる人と楽しくは過ごせません。

 

太陽の光がまぶしかったときに長男に「まぶしいね」というと「でもあったかいね」と返ってきました。なんだかいいなー君の言葉があったかいなと思いました。子どもが選ぶ言葉はその視点がおもしろくて、楽しいです。こちらからの一方的な言葉だけではなく、子どもの考えを聞けるような会話をできると、子どもとの時間がわくわくします。

 

クローズドクエスチョンとオープンクエスチョンという言葉があります。YES、NOで答えられる質問がクローズドクエスチョン(閉じられた質問)、何が好きですかなど広い範囲で答えられる質問がオープンクエスチョン(開かれた質問)です。子どもにもオープンクエスチョンで問いかけるようにすると、話が盛り上がります。つい、択一で答えられるするか、しないかという質問をしてしまいがちですが、このような知識は知っておくとおもしろいです。会話に関する本が様々に売られているように、会話には一種のテクニックを活用すると広がりがあります。


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つい見逃してしまいがちな、子どものかわいい言葉を流さずにすくいとっておきたいです。しぶしぶ出かける長男ですが、行ったら行った気というやつで「イオン行ってー、がたんごとん広場いってーおもちゃ広場いってーほんやいく?」とノリノリで自分の行先を決めてずんずん進んでいきます。ただ腰が重いだけなんですよ。

 

子育ては自分育て

 先ほど意識しないと指示ばかりしていると話しましたが、もう一つ意識しないとつい忘れてしまいがちなことがあります。それは目を見るということ。私は私のしていることに一生懸命で子どもの話を目を見て聞かないことがよくあります。そのくせ、怒るときはバッチリ目を見て叱ってしまいます。子どもが気を引きたいときにいたずらをするのは、怒るときの方が私がしっかり向き合ってくれるからだなと思います。逆効果です。

 

楽しそうにしているときこそ、共有したいなと思います。目を見て話すは簡単に思えて、私にはなかなかハードル高いです。日々修行です。

 
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左は長男、右は姪