あったらいいなと思う子育て支援を3つ提案します
私には4歳の長男と2歳の次男の子どもがいます。母歴4年です。4年間の子育てを通して、私の経験からあったらいいな!と思う子育て支援について3つ提案します。
①ママのお昼寝場所
私が今までの子育ての中で一番きつかったのはやはり生まれてから1歳までの歩くまでの間でした。なんといっても母は夜寝られません。
おっぱいおっぱいで、どうすれば夜寝るようになるかという試行錯誤に明け暮れました。それでもやはり寝てくれなくて、夜寝かせては泣き、起きておっぱいをして、寝かせては泣き、起きておっぱいをするという毎日でした。
どうすればいいかとか、母が悪いとかそんな話ではなくて、そんな時期ははっきり言って我慢して過ぎるのを待つしかないのです。
そんなときに、ママのお昼寝場所があればいいなーと思っていました。そこに駆け込めば、赤ちゃんのことは一時的にだれかが見てくれて、その間、母はおもいっきり寝ることができるという場所。
睡眠が足りていないことはすべての元凶です。イライラ、子どもに優しくできない、かわいく思えないなどなど問題の一番初めはすべてここ。睡眠欲を完全に満たす。それだけで救われることがたくさんあります。
②自宅訪問してくれる、夕方ばあば
子どもが小さいうち、夕方は問題が重なります。子どもは一日に疲れてきていてぐずぐず言いはじめて、赤ちゃんはたそがれ泣きをします。
そして夕方は母も一番忙しい時間帯です。夕飯の用意をする時間で、グズグズいう子どもにご飯を食べさせて、お風呂にいれて寝かしつけるまでを一人でこなす人も多いでしょう。
そこに登場するのがこの夕方ばあばです。
ばあばは近所の人でもおっけーで、とりあえず夕方の猫の手も借りたい時間に現れます。
そして、部屋を片付けてくれたり、子どもと遊んでくれたり、ちょっとした買い物をしてくれたり、母の話に耳を傾けたり、ご飯を食べさせたり、お風呂に入れるのを手伝ってくれたりします。
夕方ばあばは子どもと分離するための時間をつくってくれる人ではありません。
子どもと母と一緒の時間を過ごしてくれる人です。
一番大きな役割は母の話に耳を傾けてくれること。一日中家にいて赤ちゃんや子どもと二人きりで、大人と話す機会が減ってしまうこともよくあります。そこに話を聞いてくれる人が現れる安心感は絶大です。
この夕方ばあばは完全に子どもを任せきりにするわけではありません。母と子どもと同じ空間にいてくれます。
家に誰かひとりでも人がいてくれると正気でいれると思ったことは数知れません。子どもに発狂してしかりつけてしまうこともすごく減ると思います。
どうでしょうか夕方ばあば。すごく頼りになると思うのですが。近所のおばちゃんとかになってもらえるといいですね。
③2人目出産時に上の子と遊んでくれるサービス
2人目を出産したあと、一ヶ月は家に引きこもりになります。その間、上の子がもう幼稚園にあがっていればなんとかなりますが、上の子もまだ家にいる場合は大変です。
なかなか外に出られなくて、退屈なのに、母は赤ちゃんの世話をしているから相手にしてもらえません。
しまいには夜泣きにつながったり、情緒不安定になってイライラしたり、産後の母にさらに負担になります。
上の子は外で遊べないので欲求不満、母親は上の子をかわいそうに思う気持ちもありますが、下の子の世話で体力的にも疲弊していてそれどころではないです。
ただただ時間が過ぎるのを我慢して待つほかないという状況です。
だれか、外で思いっきり遊ばせてあげて欲しいと切に願います。母親が外に出られませんから、このサービスは自宅送迎が好ましいです。自宅送迎付きで、上の子を外で遊ばせてくれ、なおかつ友だちがいるともっといいです。
外で遊んで、すっきりして帰ってきたら、親子ともに精神的に健やかになれそうです。
以上、3つをご提案しましたがどうでしょうか。私があればいいなと思うこと、それは他の誰かも思っていることではないかなと思います。もし、こんなのも欲しい!というアイデアがありましたら教えて下さい。
子育ては新しいカタチを求めている
既存のサービス、地域の子育てセンターみたいなところは確かに役に立ちます。地域でのお友だちづくりや、密室育児の防止などに効果的だと思います。
しかし、初めの一歩は本人が踏み出してその場まで行かないと支援が受けられないというのがネックです。
毎日の育児に疲れていて、家に誰か来てくれと思うことが頻繁にありました。でも乳児健診や、新生児訪問の保健師の人に何か困ったことはないですかと聞かれても、普段の小さな困ったを事細かに話す気にはなれません。
子育てのしんどい感は、これ!という大きな問題があるというわけではありません。
小さなイライラ、小さなつまずき、小さな不安、小さな孤独。そんなものが積み重なったところに、子育てのしんどさはあります。
だから、初めて会う人に子育ての辛さなんて語れないです。相談なんてできません。
だから日常の中に、少しずつ、何人もいて欲しいです。私の名前を知っていて、私の子どもはどんなことが好きか知っていてくれる。私が困った話や失敗した話に耳を傾けてくれる。そんな近所のおばちゃんみたいな存在がたくさんいればいいのではとよく思います。
人間は生物学上、1人で子育てできるようにはできていません。
だからたくさんの人を巻き込んで子育てしましょう。そんな風にたくさんの人の手を少しずつ借りて、子どもを育てることができる仕組みが必要なのではないでしょうか。
一つの建物に子育て世帯が集まって、近所のおばちゃんが手伝いにきたりして、遊んだり、ご飯食べたり、お風呂入ったりしてから、家に帰るみたいな場所もいいなと思います。
いっそ大家族的にわちゃわちゃ暮らしていれば、子どもと一対一の時間に悩まされることもないでしょう。これおまけで、4つめです。
昭和の古き良き時代のような地域関係は今の世の中には希薄です。
だから、新しい子育てのカタチが必要です。
昭和のようなみんなの子育てという古きを知ったうえで、これからの新しき子育てを考えていきたいですね。
子どもにデジタル機器を無制限解禁するメリット3つ
私は森のようちえんが大好きで、長男がうまれたときから自然派育児を目指してきました。しかし、長男と衝突して、方向転換、今はおうち大好きな長男に合わせておうち森のようちえんにて活動中です。おうち森のようちえんとはおうちで暇につかり続け、したいことをしまくるという活動です。
【過去記事】
森のようちえん大好き自然派の私が、子どもにデジタル機器を無制限解禁した話 - 森のようちえん きらめき
長男は朝起きると、その日の気分でyoutubeかゲームをし始めます。そしてそのまま午前中いっぱい最低3時間程度は画面にくぎ付けです。長男にデジタル機器を無制限解禁するメリットを3つご紹介します。
①集中力、自発性、忍耐力がつく
子どもはそもそも好きなことに対する集中力はすごいです。長男は基本的に3時間は画面の前でじっとしています。昨日は朝からyoutubeを見ていて、間にご飯やおやつを食べる以外はずっと見ていて、結局7時間みていました。
子どもがひとつのことに夢中になって、我を忘れて、何かに取り組んでいる状態のことをフローといいます。フロー(没入を伴う集中状態)に入ると周りの声や音も聞こえないぐらい集中するとのことです。以下より引用。
【引用記事】フロー理論と幼児教育 : 幼児教育とグローバル基準の保育
このフロー経験を重ねた子の様子のひとつとして「自発性が芽生え、「やればできる」という自信と忍耐心が表れる」ことが挙げられています。長男はフロー経験を重ねているのだろうと私は思っています。
自発性としての例をあげます。
長男は私が起きなくても一人でゲームをし始めます。早くやりたいのでママの起床を待てません。お腹がすいたら、ひとりで冷蔵庫からヨーグルトを出してスプーンを探して食べていたり、パンを探し出して食べていたりします。
早くゲームしたいけど、お腹が空いた。ママがいないなら、自分でやろうという気持ちが生まれたようです。ゲームしたい気持ちの原動力ハンパないです。
次に忍耐力。
長男はyoutubeでは自分の見たいものが見つかるまでずっと飽きずに探し回っています。ゲームでは負けても負けてもがんばってクリアしようと続けています。
「よし、がんばろう」と自分で自分を励ましている姿もみかけます。こうして忍耐力が培われていくのですね。
そして「やればできる」経験。
ゲームではわりと簡単に得られます。勝ったり負けたりを繰り返します。そんな小さなやればできる経験を積み上げていくことで、ぼくはやればできるという自信に変わっていくのでしょう。
フロー経験を重ねた子の様子として以下もあげられています。(上記より引用)
・自発性が芽生え、「やればできる」という自信と忍耐心が表れる。
・運動器官(特に手や指先)の差が、器用さに表れ、身のこなしがよくなる。
・観察力や注意力が増し、より高い技能が身についてくる。
・情緒が安定し、他人への思いやり、協調性が表れる。
・規律と秩序を重んじ、従順さが養われる。
たかがゲーム。されど真剣にやり込むなら、その先についてくる能力があるみたいです。
②「学び方」を学ぶ
youtubeとゲームにはわかりやすい互換性があります。youtubeにはゲーム実況という動画がたくさんあります。そこから今プレイしているゲームの実況動画を探し出します。
字が読めなくても、音声検索がありますので、自力で探し当てることができるのです。長男だけでなく、2歳の次男でさえも音声検索は使いこなします。たどたどしい次男の話し方でも意外と検索してくれます。
長男はその実況動画から攻略のヒントを得て、実際に自分のプレイに生かしていきます。youtubeを見て、情報を入手して、実践してみます。
今の時代、ネット上の情報を拾い集めて自分の知りたいことを知っていくのはあたりまえの行為となっています。知識を覚える必要はありません。どんなに記憶力が優れていたとしてもGoogleにはかないません。その情報をどう活用していくかです。
疑問が生まれれば、情報を集め、吟味し、得た情報を組み合わせて、実践する。そこで達成感を得ます。こうやって自分の知りたいことを知って、自分に活かしていくのかと体験していきます。それが「学び」です。
たかがゲームに関することです。しかし、すべてのベースになる「学び方」を自分で自然と学んでいっているのです。すべての遊びは学びです。
③世界に触れる機会が増えた。
長男はスプラトゥーンとマリオが好きで、任天堂系列の動画をよく見ています。その動画関連をみていくと、自然に海外の方が作成したものにたどりつきます。
無論、音声は英語で始まります。長男は抵抗なく見ています。英語表記を見て「あーこれ英語やなー」と言ってアルファベットの存在を理解しています。音声も英語が始まると、それを真似してフレーズを話すこともあります。
自分と同じ言葉を話す人もいれば、違う人もいる。ということを自然に理解します。白人、黒人といった人種が混ざり合った映像もよくでてきます。人間の肌の色が違うこともあたりまえに感じているのしれません。
YouTubeをみていると、世界が狭くなったことを実感します。世界の裏側の人がつくった動画が今、手元で見えるのです。長男がしているスプラトゥーンでは、海外の人と一緒にバトルを楽しむことができます。
そのことを長男は理解してはいませんが、そのバトルの中でカモン!とかナイス!とか言ってコミュニケーションをとることもできます。
私たちが手にしているこの小さなデジタル機器たちは世界を狭くしています。
子どもたちはデジタルネイティブと呼ばれる存在です。生まれたときから、手元にスマホ、世界がそばにあるのです。
彼らは広い世界で、グローバルに生きていくことが約束された世代です。私たちが育ったときと同じように育てることは不可能なのです。
親は時代遅れになりがち
私は自分の子どもを昔ながらに自然と戯れて育てたいと思っていました。それもとても素敵ですが、子どもは時代の流れすら敏感に感じるのかもしれません。
長男がデジタル機器に没頭する弊害はあります。没頭しすぎて私もなかなか自由に外に出られないし、長男の目が悪くなるかもしれないし、もう肩こりの症状を訴えたりもします。体が心配です。
ゲームやYouTubeを制限する意見はわかります。私もやめさせたいと思うこともあります。でも本人が好きなことを好きなだけしていることに、悪いことはありません。
私も以前は拒否していました。でも長男と過ごす中で気づいたのです。今の時代にゲームやYouTube を制限することはナンセンスだ。時代遅れだと。
私たち親世代でさえ、子世代からすれば時代遅れです。親はそのことをよくよく理解する必要があります。
子どもは自分に必要なことは自分でわかっているのだろうと思うことがよくあります。画面に首ったけで一歩も外に出たがらなかった長男ですが、次の日は朝のゲームを早々にやめて、珍しくおもちゃで遊んで、外でも遊びました。
子どもは自分でも自然とバランスをとることができるようです。
親から見るとYouTubeばっかりみて!と思うことが多いと思います。しかし、親が考えるバランスと子どもが考えるバランスは違います。
親は外遊び、家遊びを5:5が理想的だと考えるかもしれません。しかし子どもの中の良いバランスは2:8かもしれないのです。
親と子どもは違う人物です。
親の強制力は強力です。ゲームもYouTube も強制的にやめさせることはできます。ですが、子どもの欲求を抑え続けると、どこかに歪みがでるかもしれません。
日本に暮らしていく限り、ゲームやYouTube を避けることはできません。もういっそ受け入れていってはどうでしょうか。
デジタル機器は悪いことばかりではありません。メリットもあります。親自身も拒絶反応を示す前に勉強しましょう。
そしてデジタルネイティブを育てる身として、考えましょう。
あなたの子育てが時代遅れではないかどうかを。
へたな絵を描くことが恥ずかしいと思っている大人たちへ、それは呪いですよ
子どもと生活していると絵を描く場面というのがあります。そのような場面で自分は絵が下手だから描きたくないという人をよくみかけます。どうして絵を描くことが嫌になってしまうのか疑問に思って、調べてみるとこの記事をみつけました。
【参考記事】
70%の人が絵を描くのが嫌いになってしまう5つの理由―もう一度好きになるには? | いつも空が見えるから
上記から引用
絵を描くことが嫌いになる5つの理由
1.上手、下手で評価される
2.他の人と比較される
3.親や先生に指図される
4.大人社会が写実画を要求する
5.自分の理想と違う
どれもこれも納得できる内容でした。とにかく、人の目を気にしだすと嫌になるということです。私も小さいときから絵を描くのは好きではありませんでした。絵を描くことからはじまり、図工の授業と、とにかくつくるということに対してコンプレックスがありました。
なぜかというと、それは他の人より良い成績をとることができなかったからです。私はテストで高い点数をとることは得意でした。しかし図工の成績では良い点数をとることができませんでした。だから自分は絵が、図工がへただから嫌いだと思っていました。
私が描いた絵↑
自分がつくるものは良い評価を得ることができないという経験をして、私は絵が嫌いだという刷り込みを行ってしまったのです。私は周りからの目をとても気にしてきました。失敗するのは恥ずかしいと、へたなことをするのは恥ずかしいと思ってきました。
好きなようにつくればいい
「下手なことをすると恥ずかしい、何でも上手にしなければならない」という私の思い込みをぶっこわしてくれたのは、障がいを持った子どもでした。
私は学生時代にガイドヘルパーをしていました。障がいをもった子どもたちといろんな場所に出かけて余暇を支援するという仕事です。あるとき、子どもと一緒に花瓶をつくるというワークショップにでかけました。
そこで指導する先生のもと、花瓶に粘土をくっつけていきます。私は一緒にいる子どもに上手につくらせてあげようと思って、ここにつけてはいけない。ここはこうした方がいいと細かく注意を出していました。
しかし、その子は私の注意など全く聞かずに、ご機嫌に好きなように作業をすすめていきました。私はいつしか注意をすることをやめて、その作業を見守っていました。できあがった作品はお世辞にも上手にできたとはいえない出来栄えでした。
でも楽しそうにその作業をするその子を見ていて「ああ、上手にしなくていいんだな」と、すとんと胸に落ちました。今まで私は何でも上手にしようとしすぎていたなと学びました。
人の目を気にせず、自分の思いのままできあがったその作品を、その子は大事に持ち帰りました。きっと帰ってお母さんに自慢したでしょう。好きにつくればいいと気づいて嬉しかったです。
失敗を恐れる気持ちは呪いです
私たちは失敗を極度に恐れます。失敗したら恥ずかしい、失敗したら笑われる、人から何か言われるのが怖い。そんなことにおびえて生活していることがここかしこにあります。
それは小さいころから、集団で生活するなかで身に染みついたものです。集団生活に属したときから、同じ制服をまとい、同じ道具を使い、同じ課題に取り組み、そのなかで優劣をたたき出すテスト、成績表に評価される生活を10年以上続けた人が大半でしょう。
そんな環境の中で「みんなと同じようにするように」と先生に指導され続けます。そりゃ身につきますよ。もう骨の髄まで染み込まされて、人と違うことをするのが怖くなります。これはもう呪いの域です。
子育てするようになると、親の興味は自分の子どもはみんなと同じようにきちんとできるかということに向きます。自分がそのように育てられたからです。
でも「なんでも上手にできなければならない」「失敗すると恥ずかしい」と感じる環境で過ごし、役に立ったことが何かあるでしょうか。ちぢこまるだけです。
上手にできなくてもいい、失敗してもいい、とにかくやってみることが大事だと知ることの方が生きる上で何倍も楽になります。
失敗するのが怖いから、人と違うことをするのが怖いから、今いる場所から動けない。新しいことを始めることができないという人もいるのではないでしょうか。そんな悩みを子どもたちにまで受け継ぐのはやめましょう。
84歳の祖母と2歳の次男
へたな絵を描いていきましょう。それを笑っていきましょう。へたな絵をかく大人を見て、失敗する大人を見て、子どもたちは大きくなっていきます。
失敗しても大丈夫、何なら何もしないことの方が恥だぐらいの勢いで生きていきましょう。失敗しまくるけど、絵もへただけど、笑って生きて、楽しそう。そんな大人をみて子どもたちは未来に希望を持っていくのではないでしょうか。
へたな絵を描いていきましょう。
保育士のみなさん!今の環境、無理あるから!
「ほいくの王様」という漫画を読みました。かわいい絵柄だったので、保育士と子どものほっこりエピソード系の漫画かなと思って読み始めました。しかしなかなかハードな問題提起をしてくれるお話でした。
【こちらで1巻無料で読めます↓】
まんが王国 - 無料で読める電子コミック・漫画が1700作品以上!
保育園を経営する園長が「保育士ってのは親(ママ)の奴隷なんだよ」というセリフがあります。おおー確かにその通り。以下に園長のセリフ引用続きます。
どの親も子どものためと言いつつ求めているのはいかに自分が満足できる保育園か だ。保育士はいわばホスト、お客様(ママ)の要望を叶えるサービス業なんだよ!
子どもが一番好きな人はママだ。大好きなママが喜べば子どもも喜ぶ!ママに大サービスして何が悪い!
未熟な保育士ほど子どものためにならないだのなんだの親の要望にケチをつけ、結果的に親の不満のツケが子どもの回る。それは本当に子どものためか?
このようになかなか言いにくいことを的確についてきてて、考えさせられるセリフがたくさんありました。大好きなママを満足させる→子どもも喜ぶという理論は一理あるなと思わされました。
お遊戯会とか典型的です。子どもたちが演技するかわいい姿を見せて親を喜ばせる行事ですよね。子どもが毎日楽しければ、接待してくれなくてかまいません。
1人で20人みるとか不可能
保育士は専門職で、親に子どもについてレクチャーする立場であるはずです。しかし、ここにあるように親の要望に応えることだけを優先するところはたくさんあるのでしょう。
なぜ保育士が親の要望に振り回される状況がうまれてしまうのかというと、親は潜在的に「先生はほんとうに自分の子どもを見てくれているのか?」という疑問を持っているからです。
3歳児になれば、先生1人に対して、20人以上の子どもをみることになる園が普通です。この状況がそもそもおかしいです。手厚い園では補助の先生をつけて、1人の先生に対して子ども10人の対応をしているところもあるかもしれません。
それでも1人で10人です。家で親は1人か2~3人程度の子どもをみるのが大変だと言っています。それなのに、先生は1人で10人です。親は「先生は忙しくて自分の子どもをしっかりは見てくれていないだろうな」と潜在的に思っています。当然そのように思ってしまう環境です。
だから平等を求めます。個別に対応することに対しての不満がうまれてしまうのです。自分の子どもをしっかりとみてくれてはいないだろうという環境の中で、個別の対応をとってもらえる子がいると、不平等だ!とすぐに訴えたくなるのです。
しかし、子どもはひとりひとり違うもので、ひとりひとりへの対応は当然、全く違うものになるはずです。この一人対する大人数の環境がすべての元凶です。大人数を相手にする先生はどうしても平等を優先してしまいます。大多数の親を納得させるためです。
たとえば先生1人に対して子ども5人程度の環境であったとします。先生は毎日しっかり子どもたちに対応し、親の悩みにも耳を傾け、ひとりひとりに個別な対応をとることも可能でしょう。
全員に個別の対応をとることができ、親も先生は私の子どもをしっかりと見てくれていると満足感を得ていれば、たとえ他の子どもに個別対応していても何の訴えもでないでしょう。自分の子どももしっかりみてもらえているのだから、他の子どももそうするよねとなるのです。
このような記事をみつけました。
【参考記事】
集団保育になじめない娘。心配する母に保育園の先生がかけてくれた言葉【保育とわたし】 - スゴいい保育|保育の必要な未来といまの声を届けます
集団で生活するメリットはみんな自分とは違うということを知ることができることです。という内容でした。こんな素晴らしい対応をしてくださる先生もいます。しかしこの対応も大変なものだったと思います。大人数を相手にしていて、人員的に余裕がなければこの対応もできません。
すばらしい資質をもった先生がたくさんいます。そんな先生であったとしても、1人で大人数を相手にせざるをえない状況では、ひとりをないがしろにしてしまう状況がうまれてしまいます。
保育士が辞めるのは保育士からの助けてのサイン
今、保育士不足が問題としてよく取り上げられます。自分はこのような保育をしたい、でもそれを許さない状況にあるというギャップに苦しんでやめていく先生も多いのではないでしょうか。
わたしは保育現場は規制緩和すべきだという意見に賛成です。保育所をたちあげようとすると国が課した様々な基準をすべてクリアしなくてはなりません。すると
保育所自体が増えない
↓
待機児童という問題が解決されない
↓
なんとかしようと
今ある保育所はたくさんの子どもを預かる
↓
先生が一人で多人数を
みなければならない状態で
余裕のない保育環境がうまれる
↓
親の不満がつのる
↓
保育士に不満をぶつける
↓
保育士は親への対応に疲れる
自分の理想の保育と
現実のギャップに疲れて辞めていく
↓
保育士不足の問題にも繋がる
無限ループですよね。まずは規制緩和すればいいのではと思います。そうして無認可の園が増えると、次に無認可の保育園で起こった子どもの事件のニュースが取り上げられるでしょう。無認可園は信用ならないと。
そのニュースも無認可園のずさんな対応と銘打ったもので、どこまでが事実でどこまでが本当か判断がつきにくいです。メディアは言いたいことしか伝えないので、事実が曲がっているかもしれません。ほんとうに変な無認可園もあるかもしれません。
そこは親と園の信頼関係になってくるでしょう。親としっかりと信頼関係を結ぶことができる距離感を保てるのも少人数ならではです。素敵な資質と理想をもった先生たちが環境につぶされていくのはつらいです。
先生、いつも勉強してますか?
そんな先生たちには独立してもらって、小さな園で、子どもとしっかりと向き合う自分の園をつくってもらえたらいいなと思います。素敵な先生には必ず親も子どももついてきます。
この先生になら子どもを預けたい!と思えるそんな小さな園が無数にあれば、親は安心して働けて、子どもは毎日楽しくて、先生は子どもにも親にもしっかり寄り添うことができます。
そうなれば素敵じゃないですか。理想は語っていきましょう。語ることさえ忘れたら何も生まれません。そんな小さなおうち園を実際につくることからはじめて、今も保育業界でさまざまな活動をしているNPO法人をご紹介します。
【参考HP】認定NPO法人フローレンス | 新しいあたりまえを、すべての親子に。
代表の駒崎さんは現状を変えるためにいろんな働きをしています。保育士の先生方も現状に疲れ、なげくだけでなく、さまざまな考え方を見て、とりいれ、勉強して、自分も現状を変えるために動いて欲しいです。
動くという最初の一歩は逃げるということです。
今の保育園の状態を変えるのは現状難しいと思います。だから逃げます。忙殺される前に逃げましょう。環境を、自分を置く場所を変えてみれば自分の保育ができるようになります。
自分の保育を追い求めることをやめて、今の苦しい状況に馴染んでいこうとするとき、子どもと距離がうまれ、親との対立がうまれるのではないでしょうか。
何か違うな、ここにいたら自分のしたいことができなくなる、自分が疲れてしまう、そう感じたときは逃げましょう。今いる場所の状態を変えるのは難しいです。逃げて、新しい場所で自分ではじめる。それか自分の理想に近い場所をさがす。
保育士の先生たちが誰よりも楽しんで、生活をしている。そんな場所にわたしは子どもを預けたいと思います。
先生はいつも忙しそうで話しかけるのに気が引ける。子どものこんな些細なことを訴えるのは悪いな。モンスターペアレントと思われたくないな。親はそんな気持ちを抱えています。言うか言わないかです。
そんな場所では信頼関係を築けません。保育士のみなさん、逃げて、逃げて、自分が一番楽しい!毎日最高!と思える場所で子どもと向き合ってください。そうすれば、みんながハッピーです。よろしくお願いします!
子どもがケンカしているときに 親がする行動3つ
きのう長男がケンカした相手は次男でした。足があたったとかあたらないとかそんな理由です。わたしは間に入ることはせずに、先に玄関から外にでてまっていました。「ふたりではなししてね」と声をかけて。
しばらくすると、ふたりで玄関からでてきました。仲良さそうにふたりで笑いあいながら。そしてふたりはばっちりくつもはいていました。長男が次男のくつしたをさがしたけどなかったと言いました。まだくつをはいていなかった次男のくつしたをはかせてあげようと思ったようです。けれどみつからなかったので、次男は裸足のまま長靴の姿で登場したのです。
どういう話し合いでけんかの仲直りをして、くつをはいて外にでようとなったのかはわかりません。わたしがみていなくても、ふたりで仲直りをして、ふたりで問題を解決しようとしたその姿がいいなーと思ってみていました。
今回はいい感じで終幕したケンカでした。どうしていい感じで終われたのか。日々起こる子どものケンカに、どう対応するのか、3つお伝えします。
①親自身の口をだまらせる
子どもたちがケンカしているとカッとくるのはよくわかります。カッとなる瞬間は一瞬のことなので言葉が口をついてでます。長男が次男に明らかなやつあたりをしたときに、おもわず「今のは長男が悪い!」と言ってしまいました。
わたしはこれだけは言ってはいけないと思っていた言葉が飛び出してしまって自分自身にショックでした。それを一度とまって、考えてから言い直すのはテクニックのいることです。
カッとなったときに「間」をもたせましょう。逃げてもいいし、隠れてもいいし、とにかくその場から「間」をとるテクニックは感情コントロールとしてできるようになると、子どもにきつい言葉をかける機会も減ってきます。
とにかく、どんな方法でもいいので、どっちが悪い!と口にするのは避けましょう。
昨日のケンカはわたしがいなかったからこそ、うまくいきました。親は言わなくていいことをいいがちです。あんたがわるいとか、はやくあやまりなさいとか。そんなことを言われているうちにけんかの原因ではなく、親への不満感だけでいっぱいになってしまいます。けんかに集中できなくなります。
②「木」の上に「立」って見守る
ケンカがはじまるとすぐに「やめなさい!」と言いたくなります。しかし、ケンカをしてはいけないと教えるのはよくありません。まずはじっと見守りましょう。
人と暮らしている中で、衝突が起きるのはあたりまえのことです。そのなかでケンカはどう解決していくのか、それを考える良い機会です。
衝突をさけることばかり教えていたら、自分の意見を言えなくなります。どうして自分は怒ったのか、自分はどうして欲しいのかことばで伝えなくてはいけません。どういうときに自分はいやな気持ちになるのか、自分を知ることにもつながります。
ケンカには学びの機会がたくさんつまっています。
やみくもにけんかを避ける必要はありません。殴りあいもそれなりに必要です。どのくらいの力で叩くと相手がケガしてしまうのか、そんな「いい加減」を身につけることができます。
以前、長男が怒って次男を叩こうとしたときに、ふりかざした手にはおもちゃを持っていました。でも長男は一瞬止まって、その手をおろし、反対側の何も持っていない方の手で平手打ちにしました。えらい!と思いました。叩いたことはほめられませんが、おもちゃで叩かなかったことはものすごい成長です。
おもちゃはだめけど、手でぱちんといくぐらいなら大丈夫だと認識できている証です。子どもは自分の中で感情を処理しきれません。ちょっとくらい手がでることはささいなことです。
長男次男が大きなけがのない範囲で叩きあいをしているときは慎重に見守るようにしています。叩きあいが終わったあと、やはりふっと正気にもどり、仲直りしやすいみたいです。
漫画でよくありますよね。殴りあったあとに生まれる友情。それが家の中ではよく起こります。叩きあいをしてスッキリして仲直りしたあとは、仲良くできます。しばらくは相手のすることにも余裕を持って見守れるようになります。
手がでることは大きくなるうちに減るはずです。長い目でみれば、いいのです。今子どもに注意していることは、十年後にできるようになればいいです。そのくらいの意気込みでいれば、親も焦る必要はありませんよね。
けんかは大きなケガのない範囲で見守りましょう。親は木の上に立って、見守るのが仕事です。
③子どもの気持ちを代弁する
けんかの仲裁はむずかしいです。でも、どんなけんかであったとしても、どちらが100パーセントわるいということはないです。必ずどちらにも配慮がかけていたはずです。子どものけんかにはすれ違いが大きな原因であることがよくあります。
相手をいやな気持ちにしようと思って言った言葉ではなかったのだけれど、相手の受け取り方でけんかになってしまいます。これって大人も同じですね。
親は裁判官ではありません。ましてやすべてを見ている存在でもありません。どちらが良いとか悪いとか、それを決めるのは親ではありません。けんかをした当人同士で考えることなのです。
「みんなの学校」という本の中で、けんかは相手の気持ちを代弁してあげるといいと書いてありました。あのとき相手はこういう気持ちだった。あのとき君のことばは相手にこのように思われた。子どもたちの間でからまってしまった糸をほどきます。そして、それで終わりです。ごめんなさいしようねとまで言わなくていいのです。そこからどうするかは本人たちが決めることです。
【参考】映画『みんなの学校』公式サイト(書籍が映画化されています)
【過去記事】「ごめんね」の伝え方は決まっていない - 森のようちえん きらめき
以上、3つです。まとめると、とにかく親は黙ってろということですね!子どもと暮らしていると、口を出さないということ、待つということがとにかく難しいです。余計なこと言ったなと、言い方がきつかったなと、もうちょっと待てばよかったなと毎日反省は尽きません。口は災いの元です。
子どもはケンカの仕方も学んでいます。私たち親も口の利き方、間の取り方には注意していきましょう。
日々、修行です。
いやなことからは逃げろ
「ツレがうつになりまして」を見ました。
あらすじ結末はこちら完全なネタバレを含む内容ですので、ご注意くださいね。↓
映画「ツレがうつになりまして。」ネタバレあらすじ結末 | hmhm
映画の中でツレが「ぼくは何もできないー」と泣く場面が何度となくでてきます。その姿がだんだんと子どものように見えてくるのです。何もできなくなって、自分なんていてもいなくてもいいんだと考えて悲しい気持ちになってしまう場面が見てて辛かったです。
きちんとするな 、あそべ
わたしは仕事が精神的につらかったとき、マンションの3階に住んでいました。家の前の廊下に立って、下を見下ろして、今死んじゃってもいいんじゃないかと考えたことが一度だけあります。
わたしは仕事でお客さんに怒鳴られたり、クレームに対応するのが怖くて、ズル休みばかりしていました。今考えれば、自分を守るために適切な行動でした。
でも当時は仕事に行けない自分が情けなくて、恥ずかしくて、ツレのようにわたしは何もできないと思っていました。仕事をやめてからも、ひきずってしまって、わたしは何もできないと悩んでいました。
【過去記事】お前は生きてるだけで、最高だ! - 森のようちえん きらめき
そのとき、わたしの家族たちが、わたしが元気で生きているなら良いと教えてくれました。あたりまえのように与えられていたその感覚が、ときに見えなくなってしまいます。「きちんとできる」わたしでないと価値がないと思ってしまします。
そんなことありません。何もできなくてもいいです。生きているだけでおっけー。生きてるだけで丸儲けです。子育ても、家事も、仕事も、きちんとできなくておっけーです。
自分がきちんとしていると、こどもにもきちんとを強要してしまいます。生きて、元気で、今日もあそぶ。それをするのはこどもだけではありません。大人もみんな、生きて、元気で、今日もあそぶ。それが最高の一日です。
逆上がりできないくらいで死ぬな
大学在学時の就職活動中「いやなことからは逃げる」という名言をいった友だちがいました。その友だちは大学卒業時点で就職はせずに卒業していきました。そのころはなんて適当な奴だと思っていましたが、最近では彼のいっていたことがわたしにしっくりくるようになってきました。
日本人はいやなことを我慢してがんばることに美徳を見出す傾向があります。でもがまんして、がんばって、いやなことをやり遂げてなんになるでしょうか。あー終わったと思うだけです。そこに達成感などありません。やりたいことをやりとげる過程にある、おっくうなことはがんばればいいです。だってそれはやりたいことですから。
たとえば、逆上がり。小学校のころ練習した覚えがある人も多いのでないでしょうか。わたしは逆上がりができなくて、放課後に友だちと練習した思い出があります。そのとき、先に逆上がりができるようになった友だちが先に帰り、あとに残った逆上がりができない組のわたしと友だちで「わたしたちって生きてる価値ないね」「しんだほうがいいかもね」という会話を交わしたことを覚えています。
小学校3年生のときのことでした。もちろん本気で死ぬ気はないのですが「みんなができることをできないひとはしんだほうがいい」という発想が怖いです。みんなと同じことができない自分を恥じる気持ちがこの頃から顕著に根付いていますね。
逆上がりなんてできなくてもいい、わたしは本を読むのが好きだから。と堂々と主張すればいいだけです。逆上がりしたくない人は他のことしてていいよーという授業になればいいのにと今では思います。
「いやなことからは逃げる」名言です。逃げて、逃げて、逃げ続けて、いつかどうしても逃げたくないことに出会うはずです。そこまで逃げ続ければいいです。大事なのは自分を熱くする何かに出会うまで逃げ続ける「生き続ける」ことだけです。
先日飛行機に乗ったときに、すごく揺れたので死ぬかもと思いました。こどもたちが死んだらいやだと思いました。毎日、ついああしろ、こうしろ、どうして何回も言わせるんだとこどもにいってしまいます。でも、飛行機に乗ったあとは生きていてくれるだけでオールおっけーだわと思えます。飛行機バンザイ。
こどもには「生きているだけでおっけー」「いやなことからは逃げろ」と伝えていきます。
とりあえず、洗髪ぎらいの長男にいいます。
生きているだけでおっけーだ。
いやなことからは逃げろ。
でもそろそろ髪は洗え。
矛盾!
子どもがどこで学ぶのか、それを決めるのは親じゃない
サドベリースクールをご存知でしょうか。
・子どもは自分に必要な力を自分で学ぶことが出来る
・大人は子どもの内なる力を信じている
・子どもは学びたいと動機を持った時、一番良く学ぶ
・時間割・テストなし
・異年齢ミックス
・子どもたちが大人と対等な一票を持ち、ミーティングを行う
私はこの学校の存在を知ったときに度肝を抜かれました。時間割がない、テストがない、自分で自分のしたいことが決められるなんて今までの学校の概念をぶっとばされました。
私は森のようちえんが好きで、なぜ森のようちえんが好きなのかというと「子どもの意思を尊重」する環境であるからでした。森のようちえんの魅力は自然と共にあることが注目されがちですが、子どもがしたいことを子どもが決めて、行動する自由が認められているところです。
それは本来誰しもが持っている自由のはずですが、子どもは特に制限されがちです。子どもは生まれたときから、ああしなさい、こうしなさいと言われて育ち、大人の言うことを聞かなければならないが子どもに刷り込まれています。
幼稚園、小学校、中学校、高校、大学と、先生という存在に今日はこれをしましょう、あれをしましょうと与えられ続ける教育を当然のように受けてきました。サドベリースクールという存在を知って、最初は特異に感じたその教育ですが、わたしが重要視する「子どもの中の自然」のまま育っていくには最適な学校なのではないかと考えるようになりました。
まじめなことがコンプレックス
わたしは学校というものに所属した間の期間は優等生といわれる部類でした。勉強はできる方でしたし、先生の言うこともよく聞いて、先生からの信頼も厚かったです。わたしは自分は優秀だと自信満々のまま学校を卒業して、社会人になり、そこで精神的につぶれました。
【過去記事】お前は生きてるだけで、最高だ! - 森のようちえん きらめき
今では私はまじめであったことがコンプレックスです。先生の言う通りに動くことができる。というのは命令に従うことができるということです。命令に従うことが得意だったので、自分で考えるということはしてきませんでした。
なぜ勉強するのか、なぜ学校に通うのか、そんな根本の部分を考えることなく、与えられた課題をこなしただけです。義務教育をまじめにこなしたところで、社会に出て困らないようになるのかといえば、そんなことはありません。
義務教育というのは戦後時代の名残です。戦後は国を復興するためにたくさんの労働力が必要でした。命令に従順に働くロボットのような人材が、大量に必要な時代だったのです。学校教育はそのために導入された教育方法です。言われたようにできるようになりなさいと教える学校は刻々と変わっていく今の時代に、昔のまま変わらないでいます。
運動会はその名残の象徴です。隊列を組んで、行進して入場し、観客のために先生の言うとおりの演技をこなす。なんか怖くないですか。私は怖いです。
運動会は海外から見ると日本特有の文化で、団体行動のクオリティの高さが評価もされているのだそうです。和を大切にする日本は素晴らしいですが、運動会はやりたい人がやりたいようにやったらいいです。全員強制参加はおかしいです。やりたくない人もいます。今では何の疑問も持たずに先生のいうとおり、運動会のパフォーマンス練習をしていた自分に、大丈夫かと思います。自分の頭で考えているのかと疑問です。
学びの場はひとつではない
話がそれましたが、義務教育が悪いというわけではありません。私が問題視しているのは義務教育があまりに浸透しすぎて、他の選択肢が見えないようになっているという事実です。義務教育というのは、子どもは学校へ行かなければならないという、子どもへの義務ではありません。子どもには勉強できる環境を与える義務という親の義務です。
だから必ずしも地域の小学校に行かなければならないわけではありません。フリースクールや私立小学校、サドベリースクールや今ではホームスクールというのもあります。地域の小学校に通うことがさだめのように思っていますが、そうではありません。たくさんの選択肢から選ぶことができるのです。
子どもにはそのことを真摯に伝えたいです。地域の小学校はもちろん、他にもたくさんの学校が存在することを理解した上で、自分の進路を決めてもらいたいです。子どもにそんな責任を負わすのはどうかと思う人は子どもをなめています。
子どもには自分で決める力があります。それをできないと思っているのは、あなたが子どもを信頼していないからです。そして、もし親が希望する学校に進まなかったときのことを怖がっています。
私は長男が公立の幼稚園にすすむことを実は快く思っていません。でも、長男が自分で言い出して、自分で決めたことですから、協力します。私は子どもの決定を尊重します。自分で決めて、行ってみて、それで何かが違うと思ったら、また考え直せばいいです。大事なのは子どもが自分で決めること、親は子どもの決定権を奪わないことです。子どもを心配するのは簡単です。子どもを信頼するのはとても勇気がいります。
子どもと親は違う人間です。見える世界も、触覚も味覚も、考え方も感じ方も、好きも嫌いもすべてちがいます。それはあたり前のようで、あたり前に奪ってるものでもあります。私も修行中の身です。すぐに子どもを自分の思い通りに動かそうとしてしまいます。
寒い日に上着はきない!裸足であるく!と主張する長男次男の決定を受け入れることの難しさはハンパないです。風邪ひいたら大変なのママなんですけど!と思いますが、風邪をひいてしんどい思いをして責任をとるのも長男次男のわけです。上着きてよ!と言うと、ママなんかいもうるさい!と言われる始末です。ごめんなさい。
どのくらい寒いと上着が必要か、くつをはくのは何のためか学んでいる最中ですよね。子どもがどこでどう学ぶのか、それを決めるのは親じゃない。
決めるのはきみです。