森のようちえん きらめき

大阪府和泉市で森のようちえんをつくろうとしたが、長男が拒否したため方針変更。 おうち森のようちえんを実践中

欲を言えば「楽しそうに生きていてほしい」

今日次男がすべり台から落ちました。大きなすべり台なのですが、慣れている公園で、何回も次男は一人ですべったことがあったので私はただ見守っていました。しかし今日はいつもよりとてもすべりがよくて、すべっている途中でバランスを崩して、頭を打って、そのまま勢いよくすべり台を下まで滑って、最後にまた頭をごんと打って着地しました。私はその様子をなすすべもなく立ち尽くして、すべり台の上から見ているだけでした。着地した次男は一瞬動かなくて、本当に恐ろしい気持ちになりました。駆け寄ると泣いて抱きついて来たので、一安心でした。その後、嘔吐もなく、意識がおかしいこともなく、言動にも異変はなく、大きなけがにはいたらなかったようです。

しかし、その次男が落ちていく様子が頭に何度も思い浮かびます。今も寝ている次男の様子を何度も確かめに行っています。寝ている間に次男に何かあったらと思うととても怖いです。

 

大概は些細なことだという感覚

次男は特におっぱいにご執心で、寝るときやひまなときはすぐにおっぱいを所望します。私は長時間吸われると乳首が痛むので、もうやめて!と怒ってしまうことも多々あります。特に眠い朝方が多いです。そんな風に怒鳴ると次男は泣いてごめんねーと言います。ぱいぱいごめんねーと泣きます。最近何度も繰り返されるそのやりとりにイライラすることが多かったんです。


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でも、そんなことは本当に些細なことだと思いました。今日のすべり台から落ちていく姿を思うと本当に怖くて、もしもこの存在がいなくなってしまうということを考えただけで涙が出そうになります。大事な大事な次男です。言葉を覚え始めのたどたどしい話し方で、ままだいすきと言う姿。大好きなウルトラマンの真似をして廊下をシュワッチ!と駆け回る姿。ままごはんおいしいねーとたくさん口に入れて笑う姿。長男とケンカして泣きまくる姿。仲直りした後にハグしあう姿。かわいい次男のいろんな姿を思い出し、全部全部大事な大事なものだと気づきます。今日は本当に無事でよかったです。

 

欲を言えば「楽しそうに生きていて欲しい」

 私は長男に、次男に、たくさんのことを望んでしまいます。ああなって欲しい、こうなって欲しいは尽きることがありません。普段から多くを望まないように気をつけているつもりですが、こうして欲しい、ああして欲しいと注意する声の絶えない日々です。でも、今日のようなことがあると普段から口を酸っぱくして注意していることなど、些細なことで、どうでもいいことです。生きていてくれたら、元気でいてくれたらそれだけで本当に幸せなことです。


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私はそんな大切なことをすぐに忘れます。明日もきっと長男に、次男にいろんな注意をすると思います。でも、ここに残しておくことでまた思い出します。ただ元気に生きていてくれることが、どんなに素晴らしいことか。どんなに幸せなことか。どんなに貴いことか。

忘れても、思い出し、忘れても、思い出し、大事にしていきたい。毎日は平凡に平坦に過ぎていっているようですが、今はとても大切です。明日、次の瞬間何が起こるかわかりません。今日の公園で次男が大きなけがをしてしまうことだってありえたのです。今日はとても幸運でした。

子どもたちが元気に笑っていられる瞬間をただたくさん積み上げていく毎日が、今の私の幸せな毎日です。明日も怒るかもしれないけれど、聞き流してくれてかまいません。口は言わなくていいことばかり言うような気がします。でも私の本当の願いだけが子どもたちに届いて欲しいと思います。


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ただただ元気で生きていてほしいです。欲を言えば「楽しそうに生きていて欲しい」です。笑って、泣いて、忙しい子どもたち。明日も元気に生きていてくれたら私は最高に幸せ者です。今日も生きていてくれてありがとう。

遊びは学び

こんにちは。今日は「遊びは学び」というお話をします。今日はお天気が良かったので私はもう外に行く気満々でした。長男次男に外に行けばこんなことをして遊ぼうとプレゼンしましたが、頑ななイヤにあい、結局今日も外には行かず仕舞いでした。私のプレゼン能力が低いから、外に行けないんですね。明日は外に出かけられるように私もプレゼン能力あげていきます。

 

遊びは学び

家が大好きな子っていますよね。うちの長男みたいに。子どもって贅沢なようでそうでもないんですよ。家にあるもので満足できるんです。私は家の中に満足できなくて、外に刺激を求めてしまいがちなのですが、子どもたちは家の中でどんどん遊びを見つけていきます。長男ですが、いつもゲームして、ゲームしてと書いていますが、そのゲームの中でも創意工夫というものがあります。

例えば、長男が大好きなスプラトゥーンには自分のアバターがあります。アバターがキャラクターに話かけてみるのですが、長男は字が読めません。字幕で表示されるので何を言っているのかわかりません。なので自分でセリフをつくって話かけてみて、相手の話も自分で作ってということをします。いわば画面でお人形ごっこですね。初めてその光景を見たときは驚きました。字が読める私にはその発想は生まれません。

 

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大人は効率を求めます。ゲームの中でさえもそうです。でも、長男は端から端までのんびり遊びつくします。行かなくてもいい場所に歩いていって、わざわざ落ちてゲームオーバーになってみたり。どうしてわざと落ちるのか聞くと、落ちた時のアバターの声が可愛いからという。大好きだから、やり込んでいろいろやってみて、新しい発見に心躍るという体験を彼は楽しんでいるみたいです。彼がゲームで遊ぶ姿を見ていると私からは生まれない遊び方がたくさんあって、いつも驚かされます。

他にもYouTubeスプラトゥーンの動画を見て、そこから情報を得て実際にその真似をしてみます。ネットから情報を掴んできて、実際に自分にも応用してみるということを誰に教えてもらうでもなくやっています。情報を掴んできて、自分で使うというこの能力はこれから自分が学びたいことを学んでいく基礎ですよね。遊びは学びです。

 

上手にできなくていい

そんな長男を見て私も家で創意工夫してみようと思い、前々から何かに使えるかなと貯めていたティッシュペーパーの箱で、トンネルを作ってみました。そのトンネルをひとつ作るとどんどん面白くなってきて、しまいにはお店になりました。


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次男が大喜びでお店屋さんをしてくれました。喜んでもらえて、作ったかいがありました。私は小さい頃から図工が苦手でした。上手にできないと恥ずかしいと思っていたからです。でも、大人になって上手にできなくてもいいということを学びました。絵を描くのも苦手でしたが、描いてみると下手すぎて笑いがとれるということを学びました。それ以降は描く場面があれば思い切って描くようにしています。大体笑いが生まれます。それはそれで楽しいです。上手にしなければ恥ずかしいに縛られていた自分はなんだかプライドが高くて生き辛そうだなと思います。下手でもいいからやってみる。一歩踏み出してみると、何かしら得るものがあるのだと思います。

 

おまけ

ママはお外に行かないんだったら、嫌だー!と言って、布団に潜り込んでふて寝してみました。すると、誰も追ってきません。しばらくすると二人が私の枕元に立っていてお菓子をぼりぼりと食べていました。えーママふて寝してるのに、勝手にお菓子食べるとかすごいな二人とも。どんどんママなしでも色々できるようになる二人でした。


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おうち森のようちえん開園

こんにちは。今日は「大人も好きにすればいい」というお話をします。私は昨日の夜、子どもたちが眠った後に夫と映画を一本見ました。見終わったら午前2時でした。そのあと片付けをしてから、小説を読んだり漫画を読んだりしていて、眠ったのは5時頃でした。読書をして、夫と映画をゴロゴロしながら見るのは私の趣味です。この時間が私の時間で大好きな時間です。しかし、子どもたちは7時半頃に起き出して私に何やら要求します。当然起きられません。さすがに次男がうんちに行きたいと言えばしぶしぶお手伝いに起きますが、それ以外はほぼほぼスルーしています。

雨だから家にいよう

長男は朝起きたらすぐにゲームを始めます。一人でトイレにも行けますし、電気もつけてゲームの電源も一人で入れられます。次男は自分のタブレットを持ってきて、長男にパスワードを開けてもらい、ゲームをする長男の横に座ってYouTubeを見始めます。二人が寄り添って座っている姿が可愛いです。

しかし、私は寝ています。前日の夜に、エアコンのタイマーを入れておいて子どもたちが起き出す時間には部屋が寒くないようにして、電気のリモコンは子どもの手の取りやすいところに置いておく、机の上にはお茶を置いておいて、飲みたいなら飲めるようにしておく。子どもたちが起き出したからと言って私は起きなくても問題はないという環境を作っています。子どもたちはたまに寝ている夫を起こして用事をお願いしていますが、寝ているママにはあまりしつこく要求はしません。動かないと知っているからです。

 

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パパが仕事に行く準備をするころに、私は何とか起き出してパパを見送ります。そのあと、子どもたちにご飯を用意して、私も食べて、また寝ます。長男次男はそれぞれ好きなことに精を出しているので「じゃあママ寝るから」というと、はいはーいと言った感じです。長男はひたすらゲームをして、次男は好きなだけYouTubeを見た後は、ママのおっぱいを吸ったり、変身ベルトで遊んだり、お料理ごっこをしたりしてママの傍で大人しく遊んでいます。私はひとしきり寝た後、すっきりと起き出します。そしてやっと次男と遊び始めます。次男は「ねんどしよー!」と喜んで持ってきて、にこにこと機嫌よく私と遊んでくれます。私もよく寝たあとで元気なので、次男がより一層可愛く感じられます。しばらく遊んだあと、お昼ご飯を作ります。3人で仲良く食べた後は次男はお昼寝です。

今日は雨だったので、外出なしバージョンの午前中をご紹介しました。毎日こんな感じです。ゆるいですね。私は子どもたちに求めないし、子どもたちも私に大して何も望みません。一緒に過ごしている。ただそれだけです。外は雨が降っていて、寒くて少し薄暗いので出かけたいとも思いません。そんな気持ちに任せてゆっくり過ごすと穏やかで最高に良い気持ちです。

 

「おうち森のようちえん」開園

森のようちえんでは自然という開かれた空間で、自分を思いっきり開放して、仲間とともに過ごす中で自分を確立するというプロセスと辿るのだと思います。

<過去記事>森のようちえんとは? - 森のようちえん きらめき

しかし、長男の森嫌いのため森のようちえんを断念した私は「おうち森のようちえん」を開園することにしました。自分の中の自然と向き合うというのがおうち森のようちえんのやり方です。子どもたちは自分の欲求に忠実です。だから、大人がそれを阻むことをしなければ自分を見失いません。でも大人はすぐに自分が今、自分は何がしたいのかわからなくなります。大人なんだから、ちゃんとしなくちゃに縛られて自分がわからなくなるのです。私も「おうち森のようちえん」に入園しているひとりですので、自分の中の自然に忠実に過ごしています。すると本当に気持ちが穏やかになります。不満がありませんから。


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ゲーム中、真剣な顔

 子どもがいるから、朝きちんと起きて三食きちんと食べさせて、食事のマナーもきちんと教えて、きちんときちんと注意して。そんな優秀なお母さんがたくさんいると思います。でも自分の中の自然に耳を傾けると、そうしたいのではなく、そうしなければならないと思っているのではないでしょうか。もっと寝ていたい、ダラダラしていたい、何もしたくない、そんなときもたくさんあると思います。そんなときは、その自然に身を任すと気持ちがいいです。ちゃんとしなくていいです。ちゃんとって何だと最近よく考えます。「おうち森のようちえん」は大人も子どもも気持ち一つですぐに入園できます。随時受付中です。


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人形を並べて満足げな次男

 

何でもない日おめでとう!

こんにちは。今日は「お誕生日」についてお話しします。先日23日は次男の2歳のお誕生日でした。当日は夫の実家でお祝いしてもらい、昨日25日は私の実家でパーティをしてもらいました。大切なわが子が生まれた特別な日に、大好きな家族たちとお祝いをしてとても嬉しい時間を過ごすことができました。


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何でもない日おめでとう

生まれた日は特別な日です。ずっとずっと大切にしたい日です。でも、何気なく過ごす毎日も、二度とない日です。私は不思議の国のアリスが大好きなのですが、その中に「何でもない日おめでとう」というフレーズがあります。「気違いのお茶会」という、一年で一日だけのお誕生日を祝うよりも残りの364日を毎日祝っちゃおうという楽し気な場面です。一年に一回だけのお誕生日を祝うのも素敵ですが、毎日が特別という意識があれば、それもまた毎日楽しいですよね。
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いつか思い出す宝物

長男は4歳、次男は2歳になりました。こんなに小さくて可愛い子どもたちと過ごせる時間は限られていて、あっという間に過ぎ去ってしまうのだと思います。忘れたくないと思いながら、長男が2歳だったときのことはすでにおぼろげです。あっという間に大きくなって、私の元を離れていくと考えると毎日べったりとともに過ごしている今は本当に貴重です。

長男が好きなことを好きなだけするように毎日過ごそうと決めてから、長男はとても大人びてきたように思います。何をするか自分で決めるようになりました。私が勝手に何かをすると「おれが決めるの!」と言われてしまいます。朝は勝手に起きて、一人でゲームをつけて、いつまでするのかも自分で決めます。今日はどこに行くかも私と相談して、自分が行くと決めた場所には積極的に出かけます。私が時間配分を決めていたときは朝の9時半には外に出るようにしていましたが、彼に任せると、大体家を出発するのは11時ぐらいです。

遅くなったなとは思いますが、その生活に変わって気がついたことは、彼のペースで過ごしても何が問題というわけでもないということです。彼の時間は彼のものなのです。立派に内面が育ってきて嬉しい反面、もうママは用済みだなと感じることが増えてきました。4歳にもなれば、ほとんどのことは自分でできます。このスピード感を持って、あっという間に私の手を離れてしまうのだろうと思います。長男、次男とべったりと過ごす日々は、きっと私の生涯の宝物になります。いろんなことを忘れてしまうけれども、思い出すとほっこりとあったかい。そんな宝物です。


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でも、それにすがっていくのは情けないので、私は私の生きる道を歩んでいきたいと思います。寝たいだけ寝て、何もしたくないときは何もしない。やりたいことは、思いっきりやる、自分の中の自然と向き合うことを徹底した自分の生き方をみつけていきます。いつも元気でいる必要はなくて、元気がないときは「あー自分は今、元気がないんやなー」と受け入れてごろごろ過ごす。私自身がそんな風に生きている姿を近くで見ることで、長男、次男が「あ、大人もこんなにダラダラしてていいんだな」と安心して自分の人生を歩んでいくでしょう。

今の私が力を入れていることは、長男次男のやることに一々口を挟まないようになることです。口をぎゅーっと噛みしめて、モゴモゴしながら、口の中に言いたいことを留めるように修行する毎日です。私の先回りしないその我慢が2人の内から言葉や気持ちや行動を引き出す瞬間があります。その瞬間は最高です。

私が力を入れているもう一つは、自分の思いをこのブログに書き綴ることです。毎日彼らと過ごしていろんなことを考えます。人間は毎日1000個くらいモノを考えるそうなので、すぐに右から左へと消え去っていきます。毎日流れていってしまうその気持ちを捕まえて、ここに言葉として残していく作業は自分の気持ちを形づくることができます。子どもたちが育っていくことにじっくりと寄り添いながら、自分の思いを言葉にする日々は、のんびりとまーるくてやさしいです。こんな風にゆっくりと何気ない毎日を大切に、積み上げていくことが今の自分の豊かな生活です。今日も、何でもない日おめでとー!


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ふりかえらずに、そのまま行け!

こんばんは。今日は「そのまま走っていけ!」という話をします。昨日、来年から長男が通う幼稚園の育児教室の日でした。先日、幼稚園の先生とお話しした際に、育児教室は自由参加ですが、よかったらぜひ来てくださいと言われていました。私は朝から長男に今日は幼稚園で遊べる日だから行こうかと問いかけると、長男は「いかない」と言いました。何度か同じ問いかけをしましたが、答えは同じでした。私は先生からぜひ来てねと言われると、どうにも行かなければならないような気がしていましたが、長男には関係ありません。特に理由などなく、行きたくないから、行かないだけです。なんかもう、素晴らしいな君はと思いました。すぐに、しなければならない思考に陥る私は、長男の言動を見ていると自分はいろんな見えないものに縛られているなとつくづく感じます。

「好き嫌いしてはいけない」のか

今日の朝のことです。長男は起きた時から、作るグミを食べたいと言っていました。私は朝ごはんを食べてからにしようと言うと、長男は了承しました。そのあと、長男はヨーグルトを少しだけ食べて、すぐにグミが食べたいと言いました。私はそこでグミを渡せばよかったのに、あまりに少ししかヨーグルトを食べなかったことに腹が立って、ご飯もちょっと食べてから!と白いご飯にふりかけをかけて出しました。すると、長男は泣き出してしまいました。しくしく泣く長男の姿を見て、やってしまったと思いました。私の思いを押し付けてしまったなと反省しました。長男は朝、ヨーグルトしか食べないこともよくあります。いつものようにヨーグルトは食べて、当初のご飯を食べてからという約束は守ったのに、お菓子を食べたいと言ったことに私は腹を立てて、白いご飯も食べなさい!と押し付けてしまいました。私はごめん、ごめんと謝って、みんなでグミを作って食べました。私は「ご飯をたくさん食べなければならない」に縛られていました。好きなものを好きなだけ食べたらいいのに。


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↑体に悪そうな作るグミをニコニコ作る

 

「好き嫌いをしてはいけない」と教わってきました。何でもまんべんなく食べなくてはいけないと。人はみんな違って、味覚ももちろん違います。なのにどうして、好き嫌いしてはいけないのか。好き嫌いはあって当然です。好き嫌いするところから個性です。大人は好きなものを食べて、嫌いなものは食べません。私は納豆が嫌いなので食べません。でも、子どもには嫌でも一口食べなさいという大人という存在がいます。おかしいですよね。

日本には我慢を美徳とする文化があります。やりたくないことでも我慢して、がんばって、何かを成し遂げることが素晴らしいと信じられています。しかし、私はそうではないと思います。がんばらなくてもいいです。無理をしていれば、どこかにイライラが現れて歪んでしまいます。楽な方へ、楽な方へ逃げて逃げてすればいいです。無理して成し遂げて何が楽しいのだろうかと感じます。楽しいから、やりたい。しんどくても、大変でも、楽しいからやりたいというなら話は別です。そんな風に、やらずにはいられない何かに出会うまで楽な方へ歩き続ければいいと思います。

思わず走り出すという勢いがいい

子どもは何かに向かって、思わず走り出していきます。私はあの姿が大好きです。湧き上がるワクワクに思わず動き出してしまう姿が輝いて見えます。私は頭が固くて、いろんなことを考えて、考えてしないと動けないことがよくあります。でも、子どもたちは心のままに動き出すことにためらいがありません。それは本当に輝かしくて、素敵です。だから、子どもはそのままでいいんです。


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大人が何かを教えることをしない方が、子どもは自然に育っていくのではないかと最近思っています。何かを無理に教えようとするから、反発があって、お互いにイライラが生まれます。子どもが自然に育っていくのを邪魔しているのは大人、ゆがめていく、何かの形にはめていくのは大人です。思わず走り出す気持ちをずっとなくさないでもらいたいです。そのために、大人はただ見守っていればいいのだと思います。放っておくのではなく、見守る。ずーっと見ているんです。口は出さずに、子どもがどうするのか見守る。「親」という漢字は木の上に立って、見守ると書きます。それが親の過酷な修行です。この漢字考えた人はすごい。

私の森のようちえん的な育児は毎日修行の真っただ中です。押し付けるな、押し付けるなと思いつつも私はすぐに口を出す親です。こんな口を出しすぎる親の言うことなど聞かず、そのまま走っていけ!と思っています。


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「ごめんね」の伝え方は決まっていない

こんにちは。今日は「ごめんね」についてお話しします。もうすぐ2歳の次男はまだまだ感情コントロールの修行中。かっとくるとすぐに手が出ます。公園の滑り台の階段を上っているとき、自分の後ろから上ってきたお友だちを突き飛ばします。おもちゃで遊べる施設に行けば、自分が使っているおもちゃに他の子が触ろうとすると、相手のほっぺたをわしづかみにして爪を立てます。できるだけ、手が出る前に止めるようにしていますが、一発目を止めることは難しいです。相手にケガをさせてしまうこともあります。親としては相手にケガをさせると本当に申し訳なく、私が相手に謝罪をし、次男に叩いてはいけないと注意します。そして最後に次男に「ごめんなさいは?」と言います。言葉もまだまだ発達途中の次男。「ごめんねー」と心にもない様子で、言えばいいんでしょといった感じで謝ります。形としては謝ったが、それでいいのか…といつも悩んでしまいます。「いや」と言って形としても謝らないこともあります。

 

心にもない「ごめんなさい」はいらない

言葉だけで「ごめんね」を言わせる、言うように強要することに意味はあるのでしょうか。パターンとして、世の中では悪いことをしたら謝るんだよと教えることは、まず最初は必要かと思います。でも、その後、いつまでも心にもない謝罪をする癖をつけるのはどうかと思うんです。次男はもうすぐ2歳ですが、言葉もわかっていて「ごめんなさいは?」と促さなくても必要な場面で心を込めてその言葉を使うこともあります。一番近くで見ている親として、この子はもう「ごめんなさい」を言うか、言わないかの判断能力があると思います。だから、他の子に手をあげてしまった場面で「ごめんなさいは?」とこちらから声をかける必要はないのです。相手が叩かれて痛かったという事実、悲しかったという事実だけを改めて伝えることが大事であって「ごめんなさい」までを強要するのは親の先回りのしすぎです。


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「ごめんなさいは?」と次男に声をかけるのは、次男のためではなく、親の私自身の体面のためです。この子の親は、自分の子が人の子に手をあげたのに、ごめんなさいと言わせようともしない!なんて親だ!と思われるのが嫌だから、そのように声をかけてしまうんです。親の自分はちゃんと教育していますよというアピールです。自分が変な親だと思われるのが怖いから、子どもが自分で謝るか、謝らないかの判断をするのを待てないんです。

子どもは素直です。悪いと思えば謝ってくれます。でも、謝りなさい!と自分で考える時間を与えないまま強要すると、嫌々するか、しません。子どもが欲しいのは判断するための時間です。大人の流れる時間は早くて、とても子どもの判断時間を待てません。だから、すぐに「ごめんなさいは?」と言ってしまいます。大人はそこをぐっと耐えて待つと子どもの気持ちが見えてきます。もし、子どもが謝りたくないと判断したなら、それにはそれなりの理由があると思います。そしてそれを受け入れるのが親です。「ごめんなさい」と絶対に言わなければならない場面というのはありません。本人が決めることです。謝らないことで、相手から嫌われて遊んでもらえなくなったとしても、それは自分が決めたことで、自分が責任を負うことです。

 

人から「変な親」と思われる覚悟をもつ

親は体裁のためにすぐに口を出します。私のすぐに謝らせようとする行為こそ、子どもが大きくなって、心にもない謝罪をするくせをつけるのだと思います。「ごめんなさい」と伝える方法は言葉だけではありません。頭を撫でたり、抱きしめたり、ちゅーしたり、相手の好きなものをプレゼントしたりといろんな方法があるはずです。「ごめんなさいは?」と強要することで、子どもが考える時間を奪ってはいけません。何かあったとき、謝れば済むと思っているよりも、どうしたら相手に許してもらえるのか考える力がある方が本人のためなのではと思います。すぐに、口を出しすぎるこの口をいかに結んでいけるか、私も修行の日々です。そして他人の目をいかに気にせずに見守ることができるかがとても重要です。子どもから自分で考える力を奪わないためには、人から「変な親」だと思われる覚悟が必要なんです。


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やわらかく、やわらかく

こんばんは。今日はやわらかくいたいという話をします。先日、急に忘年会がしたいなーと思い立ちました。いつもきらめきに来てもらっているメンバーに声をかけるとあっという間に人が集まって、楽しい時間を過ごすことができました。もし私が、子育て中の主婦の方々に忘年会なんて急に無理を言ったら迷惑に決まっていると気をまわして誘わなかったとしたら、こんなに楽しい時間を持つことはなかったわけです。

決めつけない、固まらない

何かをする前に、これをしたら迷惑かなと多少推測することは気遣いとして大切なことです。でも自分の中で考えただけで何もしないまま終わってしまったら、何も起こりません。断られてもいいから、アクションを起こすと、たとえだめだったとしても面白い結果になります。私はこの森のようちえんきらめきの活動を始めてから、人に声をかけてお誘いすることが増えました。そして、OKをもらうより、断られる回数の方が断然多いことを実感しました。やっぱり人から断られるとへこみます。でも活動を続けて行きたかったので、めげずに声をかけ続けました。この活動に来てくれる人を探すために声をかけたからこそ、仲良くなってくれた方もいます。


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 今日は空が真っ青でした

 

きらめきは「森のようちえん」としてのアイデンティティは影を潜めていて、子育てサークルとして色が強くなってきています。暑い時期、寒い時期は無理せず室内で活動していて、野外の活動時もお散歩はせずに遊具周辺を拠点としています。私が1人で始めた当初目指した方向性とは確実に違ってきています。でも、変わってきた活動のかたち、それが良い感じだなと思っています。

活動は来てくれる人がいてこそ成り立ちます。私1人が森のようちえんの特徴にこだわって、雨の日も寒い日も暑い日も、外での活動を続けるとしていたら、今のように楽しくは続かなかったかもしれません。私は「森のようちえん」というかたちを守ることよりもこの活動をしていく中で出会った「人」を大切にしたいと思ったんです。かたい信念を持った人には魅力があります。でも出会う人の中で柔軟に変化していく、そんな人も好きです。

 

やわらかく、楽しく

子どもと過ごしていると、いかに自分のこだわりを押しつけずにいられるかという戦いになることがよくあります。長男は最近ゲームにドハマリで、基本的に3時間くらいはぶっ続けでします。やっとゲームに一区切りついたと思ったら、次はYouTubeを見だします。私は基本的には長男のやりたいことをやりたいだけすればいいと思っています。でも、そろそろ休憩しないと目が悪くなるよ!と言いたくなります。そう伝えてもやめることはありません。つい、言うとおりにしないことを叱りつけたくなります。

でも、それは私の常識であって長男の感覚とは異なるわけです。理解はしていますが、すぐに常識を押し付けてしまいそうになります。子どもには常識がありません。それが発想やわらかな子どもの持ち味です。やわらかい長男の感覚を私の凝り固まった常識で縛るのはおかしいですよね。長男は楽しい時間にケチをつけられて不機嫌、私は長男を心配しているのに言うことをきかないから不機嫌。それは楽しくない。

 

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裸足で駆け回る2人

 

だから、長男が好きなことに熱中するときは邪魔をしないように、私も好きなことをするようにしています。そうするとみんな楽で、楽しいです。無理をなくすと楽しくて、優しくなれて、余裕が生まれます。いつも楽にいたいです。そうすれば、優しくなれる。私も子どもたちのようにやわらかく、やわらかくいたいと思います。


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今日は珍しく公園に行くと言った長男。子どもは天候を敏感に感じて行動するようです。
f:id:miraimikiki0201:20161220025211j:image 最近、お料理に夢中の次男。フライ返しに菜箸が刺さっている。