良い子だから愛しているのではない
今日次男とお昼寝をしていたときに、嫌な夢を見ました。私の傍らには長男がいて、道の角から私の母が現れます。母は明らかに誰かに暴行されていたという風体で現れ、私と目があったあとに、また暗い道の方へ走っていきます。私は追いかけようとしますが、長男がいます。その危ないことがあるだろう暗い道の方へ長男を連れていくことはできません。私は動けないまま、お母さん!と必死に叫ぼうとしますが、声がでません。結局、実際に「あ!」と大きな声を出しながら目が覚めました。
私は私を選ぶ
嫌な夢だったなと思いながら考えました。母は大切です。私にとってそれは間違いようもない事実で、私は母を心から愛しています。でも、母か長男か選ばねばならないとしたら、私は長男を選びます。母がそう望んでいると知っているからです。そして、母か私自身かを選ばねばならないとしたら、私は自身を選びます。母がそう望んでいると自信を持って言えます。母が私を愛しているからです。
私は結婚して、母とは離れて暮らしています。離れてと言っても、車で30分くらいの距離で、週に3回は確実に会っているほど仲良しです。家を出てから両親の愛情というものをさらに感じます。実家で一緒に暮らしているときはなかなか実感することがないと思いますが、離れてみて、距離を置いてみることで母が私を心から愛していることが目に見えてわかるようになりました。私も長男次男の母となり、母について考えることが増えました。
左後ろが母
母から教えてもらったことはきっとたくさんあります。でも、今大人になって、自分も母になって、母が教えてくれた中で一番大事なことは「私のことを愛している」ということだと思います。その絶対的なベースがあるおかげで、私には私は大丈夫だという謎の自信があります。小さいときから、私は謎の自信家でした。大人になるまで、この大丈夫というのは私は何をしても失敗しないという意味として受け止めていました。
自己肯定感は育てるものじゃない
大人になり、社会に出て仕事で精神的に挫折する体験をした後、わかりました。
【過去記事】お前は生きてるだけで、最高だ! - 森のようちえん きらめき
何をしても失敗しないから大丈夫ではなく、私は失敗しても大丈夫ということです。何があっても大丈夫、逃げても大丈夫、何があっても私はダメじゃない。
この気持ちをよく「自己肯定感」という言葉で示されていることをよく見かけます。そして子育て本では子どもの自己肯定感を育てようと詠われます。私はこの自己肯定感という言葉も、それを育てようという言葉もあまり好きではありません。赤ちゃんは生まれたとき、自分を肯定しています。自分を否定するような赤ちゃんは誰もいません。だから自己肯定感という感覚もおかしくて、育てるものでもありません。
1歳のときの次男
しかし、親や先生などが~するのはダメ、何度言えばわかるの、どうしてできないの、~ちゃんはダメねなど、子どもの周りから、本人への言動がだんだんと子どもを否定していきます。自分が叱られるのは自分が悪い子だからではないかと思うようになり、だんだんと自分を否定するようになってしまうように思います。
罪を憎んで人を憎まず
親は子ども自身に、自分は生きているだけで喜ばれる存在であると教えること。子育ての真理というものがあるとするならば、ここに集約されるのではないかなと最近思います。ほめられるようなことをできるから、良い子だから愛しているのではありません。子どもに伝えたいのは、あれやこれやとできるようにしつける言葉ではなく、どんな君でも愛している、いつもそばにいるということだけです。
いつも子どもの目先の行動についつい怒ってしまいます。でもそれは本人自体を否定しているわけではありません。注意しているのはその一つの行動に対してだけです。だから本人にイライラしてそれを引きずらないようにしたいです。罪を憎んで、人を憎まずというやつです。
私が幼少時代に印象に残っていることは、とにかく母と、一緒に過ごしていたことだけです。小学生のころ母と一緒に昼寝をしていたときに、ああ幸せやなーと思ったことを克明に覚えています。怒ったことを引きずらない。一緒に時間を過ごす。子育てはこれだけでいいのではないかと思いました。