森のようちえん きらめき

大阪府和泉市で森のようちえんをつくろうとしたが、長男が拒否したため方針変更。 おうち森のようちえんを実践中

思い通りにいかないことがイラッとの正体

長男は相変わらず画面に夢中です。一日家から出ないこともときどきあります。朝はゲームから始まり、ひとしきり終わると次はyoutube、ひとしきり見終わると次はゲームか、amazonビデオでウルトラマンを視聴と、とどまるところを知りません。すごい集中力です。

 

ゲーム→youtubeの学びのライン

先月wiiUを購入したときからスプラトゥーンというゲームにのめり込んでいましたが、お正月にもらったお年玉で、次はマリオワールドを購入しました。今時、オンラインショップのダウンロードなので、お店に買いにいく手間もなく、おうちの中で次々に新しいゲームができます。画期的。


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もちろん長男は大喜びで次はマリオに熱中。教えてもいないのに、あっという間にジャンプして、アイテムを集めて、敵を倒してゴールするという手順を吸収していきます。スプラトゥーンで、ゲームの基本というものを学んだのか、それらを応用して感覚でできるようになっているように見えます。しばらくして、マリオに行き詰まると、またyoutubeでマリオのゲーム実況などを見始めます。すると見ながら「ああ、ここはこうすればいいんかー」などと言って学んでいました。こういう自分で何かを学んでくる場面を見るとなんかもう君は一人で大丈夫だなと感じます。そのうち言葉を覚えてグーグル先生にお世話になるでしょう。

 

自分のイラッとスイッチはどこ

しかし、うまいこといくときばかりではありません。昨日のことです。順調にクリアしていたマリオで負けまくり、イライラと怒り始める長男。「なんで死ぬんよ!」と画面に向かって怒っています。イライラとして大きい声をあげられて私はイラっとしていました。私は何も言わずに成り行きを見守っていました。怒りながらも長男はマリオを続けます。

 

しばらくして、ご飯を用意した私はごはんできたから食べようと声をかけます。するとまたマリオで負けた長男が「ああー!もういやあ!!」と怒った大声をあげます。大きい声と、呼んでもご飯を食べに来ないことに腹を立てた私は「負けて怒るんやったら、ゲームやめなさい!」と大きい声で怒ってしまいました。長男はしぶしぶゲームをやめましたが食卓には来ません。テレビの前に座り込んでしくしく泣いています。ああ、またやってしまったなーと思いました。

 


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ゲームで負けて悔しがっていただけなのだから、そっとしておけば良かったのに、追い打ちをかけて叱ってしまいました。大きい声を出されるとつい怒ってしまいます。作ったご飯を放置されるのも好きではありません。私には大きい声を出されたとき、作ったご飯を食べに来てくれないとき、イラッとする特徴があるということをここに記して覚えておきます。

 

自分のイラッとスイッチを覚えるようにしておけば子どもがそのスイッチを押してしまったとき、口を閉じて逃げるようにできます。そして冷静になってから、ママは~されるのが好きではないとわかりやすく伝えることができます。感情的に言葉を発して良い方向に転じたことがありません。とりあえず、間を置くという技術を習得しようとがんばっています。この日はダメでしたが。

 

泣いているときほど、雑になる

しくしく泣く長男を横目に、私はまず、自分が作ったご飯を温かいうちに食べました。まずお腹がすいているという状況を打破しようと思いました。「まずは自分のご機嫌をとる」の法則です。自分が満ち足りていないのに、泣きながら負のオーラをまき散らす長男を相手にすることはできません。

 

【過去記事】

子どもって小さな楽しみを100万個並べたような世界に生きている - 森のようちえん きらめき

 

私はお腹がいっぱいになってから、泣き続ける長男に寄り添って、悔しかったねと、怒ってごめんねと伝えました。気持ちに寄り添うように言葉を伝えると、今までしくしく泣いていたのに、逆にわーっと泣き始めました。こういう反応を見ると自分の気持ちをわかってもらえる安心感というのは大きいものなのだといつも思います。

 

子どもが泣いているとき、泣き止ますために場面転換という方法があります。場所を変えたり、お菓子を与えたりして、泣いている状態から他のことに目を移させるという方法です。これは割と有効な手段のひとつです。それもありですが、私が好きなのは言葉で子どもの気持ちを代弁することです。これは前提として子どもが大泣きの状態からぐずぐず泣きの状態までは落ち着いていることが必要です。大泣きのときは溺れているときと一緒です。溺れている状態では言葉など耳には入っていません。泣きがある程度収まるまでは待ちの姿勢です。ある程度落ち着いたそのときに話を始めます。

 


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溺れる次男

 

そして代弁するにはまず私自身の気持ちも落ち着かせてからでないとできません。自分がイラっとしたまま言葉を発しても子どもは敏感に気づいて、イラッとしているという部分をクローズアップします。でも落ち着いてから「痛かったね」とか「悔しかったね」とか「まだ遊びたかったね」とか本人がどんな気持ちで泣いているのかを汲むと、違う反応をくれます。子どもは何かを伝えたくて泣いています。それだけは確かです。

 

子どもが泣くとイラッとします。なぜかというと、自分の思い通りにことが運ばないからです。子育てのイラッとの大体がここに集約されているような気さえします。子どもという存在のおかげで、自分のペースで物事が進まない。ことあるごとに中断と寄り道を余儀なくされます。それがイライラの正体です。だから、子どもが泣いているときほど私の対応は雑になりがちです。でも、泣いているときこそ親の見せどころだなと思います。子どもが泣いているときはまず自分のご機嫌をとってから、丁寧に向き合っていきます。

 

 

良い子だから愛しているのではない

今日次男とお昼寝をしていたときに、嫌な夢を見ました。私の傍らには長男がいて、道の角から私の母が現れます。母は明らかに誰かに暴行されていたという風体で現れ、私と目があったあとに、また暗い道の方へ走っていきます。私は追いかけようとしますが、長男がいます。その危ないことがあるだろう暗い道の方へ長男を連れていくことはできません。私は動けないまま、お母さん!と必死に叫ぼうとしますが、声がでません。結局、実際に「あ!」と大きな声を出しながら目が覚めました。

 

私は私を選ぶ

嫌な夢だったなと思いながら考えました。母は大切です。私にとってそれは間違いようもない事実で、私は母を心から愛しています。でも、母か長男か選ばねばならないとしたら、私は長男を選びます。母がそう望んでいると知っているからです。そして、母か私自身かを選ばねばならないとしたら、私は自身を選びます。母がそう望んでいると自信を持って言えます。母が私を愛しているからです。

 

私は結婚して、母とは離れて暮らしています。離れてと言っても、車で30分くらいの距離で、週に3回は確実に会っているほど仲良しです。家を出てから両親の愛情というものをさらに感じます。実家で一緒に暮らしているときはなかなか実感することがないと思いますが、離れてみて、距離を置いてみることで母が私を心から愛していることが目に見えてわかるようになりました。私も長男次男の母となり、母について考えることが増えました。

 
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左後ろが母

 

母から教えてもらったことはきっとたくさんあります。でも、今大人になって、自分も母になって、母が教えてくれた中で一番大事なことは「私のことを愛している」ということだと思います。その絶対的なベースがあるおかげで、私には私は大丈夫だという謎の自信があります。小さいときから、私は謎の自信家でした。大人になるまで、この大丈夫というのは私は何をしても失敗しないという意味として受け止めていました。

 

自己肯定感は育てるものじゃない

大人になり、社会に出て仕事で精神的に挫折する体験をした後、わかりました。

 

【過去記事】お前は生きてるだけで、最高だ! - 森のようちえん きらめき

 

何をしても失敗しないから大丈夫ではなく、私は失敗しても大丈夫ということです。何があっても大丈夫、逃げても大丈夫、何があっても私はダメじゃない。

この気持ちをよく「自己肯定感」という言葉で示されていることをよく見かけます。そして子育て本では子どもの自己肯定感を育てようと詠われます。私はこの自己肯定感という言葉も、それを育てようという言葉もあまり好きではありません。赤ちゃんは生まれたとき、自分を肯定しています。自分を否定するような赤ちゃんは誰もいません。だから自己肯定感という感覚もおかしくて、育てるものでもありません。


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1歳のときの次男

 

しかし、親や先生などが~するのはダメ、何度言えばわかるの、どうしてできないの、~ちゃんはダメねなど、子どもの周りから、本人への言動がだんだんと子どもを否定していきます。自分が叱られるのは自分が悪い子だからではないかと思うようになり、だんだんと自分を否定するようになってしまうように思います。

 

罪を憎んで人を憎まず

親は子ども自身に、自分は生きているだけで喜ばれる存在であると教えること。子育ての真理というものがあるとするならば、ここに集約されるのではないかなと最近思います。ほめられるようなことをできるから、良い子だから愛しているのではありません。子どもに伝えたいのは、あれやこれやとできるようにしつける言葉ではなく、どんな君でも愛している、いつもそばにいるということだけです。

 

 いつも子どもの目先の行動についつい怒ってしまいます。でもそれは本人自体を否定しているわけではありません。注意しているのはその一つの行動に対してだけです。だから本人にイライラしてそれを引きずらないようにしたいです。罪を憎んで、人を憎まずというやつです。

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私が幼少時代に印象に残っていることは、とにかく母と、一緒に過ごしていたことだけです。小学生のころ母と一緒に昼寝をしていたときに、ああ幸せやなーと思ったことを克明に覚えています。怒ったことを引きずらない。一緒に時間を過ごす。子育てはこれだけでいいのではないかと思いました。

欲を言えば「楽しそうに生きていてほしい」

今日次男がすべり台から落ちました。大きなすべり台なのですが、慣れている公園で、何回も次男は一人ですべったことがあったので私はただ見守っていました。しかし今日はいつもよりとてもすべりがよくて、すべっている途中でバランスを崩して、頭を打って、そのまま勢いよくすべり台を下まで滑って、最後にまた頭をごんと打って着地しました。私はその様子をなすすべもなく立ち尽くして、すべり台の上から見ているだけでした。着地した次男は一瞬動かなくて、本当に恐ろしい気持ちになりました。駆け寄ると泣いて抱きついて来たので、一安心でした。その後、嘔吐もなく、意識がおかしいこともなく、言動にも異変はなく、大きなけがにはいたらなかったようです。

しかし、その次男が落ちていく様子が頭に何度も思い浮かびます。今も寝ている次男の様子を何度も確かめに行っています。寝ている間に次男に何かあったらと思うととても怖いです。

 

大概は些細なことだという感覚

次男は特におっぱいにご執心で、寝るときやひまなときはすぐにおっぱいを所望します。私は長時間吸われると乳首が痛むので、もうやめて!と怒ってしまうことも多々あります。特に眠い朝方が多いです。そんな風に怒鳴ると次男は泣いてごめんねーと言います。ぱいぱいごめんねーと泣きます。最近何度も繰り返されるそのやりとりにイライラすることが多かったんです。


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でも、そんなことは本当に些細なことだと思いました。今日のすべり台から落ちていく姿を思うと本当に怖くて、もしもこの存在がいなくなってしまうということを考えただけで涙が出そうになります。大事な大事な次男です。言葉を覚え始めのたどたどしい話し方で、ままだいすきと言う姿。大好きなウルトラマンの真似をして廊下をシュワッチ!と駆け回る姿。ままごはんおいしいねーとたくさん口に入れて笑う姿。長男とケンカして泣きまくる姿。仲直りした後にハグしあう姿。かわいい次男のいろんな姿を思い出し、全部全部大事な大事なものだと気づきます。今日は本当に無事でよかったです。

 

欲を言えば「楽しそうに生きていて欲しい」

 私は長男に、次男に、たくさんのことを望んでしまいます。ああなって欲しい、こうなって欲しいは尽きることがありません。普段から多くを望まないように気をつけているつもりですが、こうして欲しい、ああして欲しいと注意する声の絶えない日々です。でも、今日のようなことがあると普段から口を酸っぱくして注意していることなど、些細なことで、どうでもいいことです。生きていてくれたら、元気でいてくれたらそれだけで本当に幸せなことです。


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私はそんな大切なことをすぐに忘れます。明日もきっと長男に、次男にいろんな注意をすると思います。でも、ここに残しておくことでまた思い出します。ただ元気に生きていてくれることが、どんなに素晴らしいことか。どんなに幸せなことか。どんなに貴いことか。

忘れても、思い出し、忘れても、思い出し、大事にしていきたい。毎日は平凡に平坦に過ぎていっているようですが、今はとても大切です。明日、次の瞬間何が起こるかわかりません。今日の公園で次男が大きなけがをしてしまうことだってありえたのです。今日はとても幸運でした。

子どもたちが元気に笑っていられる瞬間をただたくさん積み上げていく毎日が、今の私の幸せな毎日です。明日も怒るかもしれないけれど、聞き流してくれてかまいません。口は言わなくていいことばかり言うような気がします。でも私の本当の願いだけが子どもたちに届いて欲しいと思います。


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ただただ元気で生きていてほしいです。欲を言えば「楽しそうに生きていて欲しい」です。笑って、泣いて、忙しい子どもたち。明日も元気に生きていてくれたら私は最高に幸せ者です。今日も生きていてくれてありがとう。

遊びは学び

こんにちは。今日は「遊びは学び」というお話をします。今日はお天気が良かったので私はもう外に行く気満々でした。長男次男に外に行けばこんなことをして遊ぼうとプレゼンしましたが、頑ななイヤにあい、結局今日も外には行かず仕舞いでした。私のプレゼン能力が低いから、外に行けないんですね。明日は外に出かけられるように私もプレゼン能力あげていきます。

 

遊びは学び

家が大好きな子っていますよね。うちの長男みたいに。子どもって贅沢なようでそうでもないんですよ。家にあるもので満足できるんです。私は家の中に満足できなくて、外に刺激を求めてしまいがちなのですが、子どもたちは家の中でどんどん遊びを見つけていきます。長男ですが、いつもゲームして、ゲームしてと書いていますが、そのゲームの中でも創意工夫というものがあります。

例えば、長男が大好きなスプラトゥーンには自分のアバターがあります。アバターがキャラクターに話かけてみるのですが、長男は字が読めません。字幕で表示されるので何を言っているのかわかりません。なので自分でセリフをつくって話かけてみて、相手の話も自分で作ってということをします。いわば画面でお人形ごっこですね。初めてその光景を見たときは驚きました。字が読める私にはその発想は生まれません。

 

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大人は効率を求めます。ゲームの中でさえもそうです。でも、長男は端から端までのんびり遊びつくします。行かなくてもいい場所に歩いていって、わざわざ落ちてゲームオーバーになってみたり。どうしてわざと落ちるのか聞くと、落ちた時のアバターの声が可愛いからという。大好きだから、やり込んでいろいろやってみて、新しい発見に心躍るという体験を彼は楽しんでいるみたいです。彼がゲームで遊ぶ姿を見ていると私からは生まれない遊び方がたくさんあって、いつも驚かされます。

他にもYouTubeスプラトゥーンの動画を見て、そこから情報を得て実際にその真似をしてみます。ネットから情報を掴んできて、実際に自分にも応用してみるということを誰に教えてもらうでもなくやっています。情報を掴んできて、自分で使うというこの能力はこれから自分が学びたいことを学んでいく基礎ですよね。遊びは学びです。

 

上手にできなくていい

そんな長男を見て私も家で創意工夫してみようと思い、前々から何かに使えるかなと貯めていたティッシュペーパーの箱で、トンネルを作ってみました。そのトンネルをひとつ作るとどんどん面白くなってきて、しまいにはお店になりました。


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次男が大喜びでお店屋さんをしてくれました。喜んでもらえて、作ったかいがありました。私は小さい頃から図工が苦手でした。上手にできないと恥ずかしいと思っていたからです。でも、大人になって上手にできなくてもいいということを学びました。絵を描くのも苦手でしたが、描いてみると下手すぎて笑いがとれるということを学びました。それ以降は描く場面があれば思い切って描くようにしています。大体笑いが生まれます。それはそれで楽しいです。上手にしなければ恥ずかしいに縛られていた自分はなんだかプライドが高くて生き辛そうだなと思います。下手でもいいからやってみる。一歩踏み出してみると、何かしら得るものがあるのだと思います。

 

おまけ

ママはお外に行かないんだったら、嫌だー!と言って、布団に潜り込んでふて寝してみました。すると、誰も追ってきません。しばらくすると二人が私の枕元に立っていてお菓子をぼりぼりと食べていました。えーママふて寝してるのに、勝手にお菓子食べるとかすごいな二人とも。どんどんママなしでも色々できるようになる二人でした。


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おうち森のようちえん開園

こんにちは。今日は「大人も好きにすればいい」というお話をします。私は昨日の夜、子どもたちが眠った後に夫と映画を一本見ました。見終わったら午前2時でした。そのあと片付けをしてから、小説を読んだり漫画を読んだりしていて、眠ったのは5時頃でした。読書をして、夫と映画をゴロゴロしながら見るのは私の趣味です。この時間が私の時間で大好きな時間です。しかし、子どもたちは7時半頃に起き出して私に何やら要求します。当然起きられません。さすがに次男がうんちに行きたいと言えばしぶしぶお手伝いに起きますが、それ以外はほぼほぼスルーしています。

雨だから家にいよう

長男は朝起きたらすぐにゲームを始めます。一人でトイレにも行けますし、電気もつけてゲームの電源も一人で入れられます。次男は自分のタブレットを持ってきて、長男にパスワードを開けてもらい、ゲームをする長男の横に座ってYouTubeを見始めます。二人が寄り添って座っている姿が可愛いです。

しかし、私は寝ています。前日の夜に、エアコンのタイマーを入れておいて子どもたちが起き出す時間には部屋が寒くないようにして、電気のリモコンは子どもの手の取りやすいところに置いておく、机の上にはお茶を置いておいて、飲みたいなら飲めるようにしておく。子どもたちが起き出したからと言って私は起きなくても問題はないという環境を作っています。子どもたちはたまに寝ている夫を起こして用事をお願いしていますが、寝ているママにはあまりしつこく要求はしません。動かないと知っているからです。

 

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パパが仕事に行く準備をするころに、私は何とか起き出してパパを見送ります。そのあと、子どもたちにご飯を用意して、私も食べて、また寝ます。長男次男はそれぞれ好きなことに精を出しているので「じゃあママ寝るから」というと、はいはーいと言った感じです。長男はひたすらゲームをして、次男は好きなだけYouTubeを見た後は、ママのおっぱいを吸ったり、変身ベルトで遊んだり、お料理ごっこをしたりしてママの傍で大人しく遊んでいます。私はひとしきり寝た後、すっきりと起き出します。そしてやっと次男と遊び始めます。次男は「ねんどしよー!」と喜んで持ってきて、にこにこと機嫌よく私と遊んでくれます。私もよく寝たあとで元気なので、次男がより一層可愛く感じられます。しばらく遊んだあと、お昼ご飯を作ります。3人で仲良く食べた後は次男はお昼寝です。

今日は雨だったので、外出なしバージョンの午前中をご紹介しました。毎日こんな感じです。ゆるいですね。私は子どもたちに求めないし、子どもたちも私に大して何も望みません。一緒に過ごしている。ただそれだけです。外は雨が降っていて、寒くて少し薄暗いので出かけたいとも思いません。そんな気持ちに任せてゆっくり過ごすと穏やかで最高に良い気持ちです。

 

「おうち森のようちえん」開園

森のようちえんでは自然という開かれた空間で、自分を思いっきり開放して、仲間とともに過ごす中で自分を確立するというプロセスと辿るのだと思います。

<過去記事>森のようちえんとは? - 森のようちえん きらめき

しかし、長男の森嫌いのため森のようちえんを断念した私は「おうち森のようちえん」を開園することにしました。自分の中の自然と向き合うというのがおうち森のようちえんのやり方です。子どもたちは自分の欲求に忠実です。だから、大人がそれを阻むことをしなければ自分を見失いません。でも大人はすぐに自分が今、自分は何がしたいのかわからなくなります。大人なんだから、ちゃんとしなくちゃに縛られて自分がわからなくなるのです。私も「おうち森のようちえん」に入園しているひとりですので、自分の中の自然に忠実に過ごしています。すると本当に気持ちが穏やかになります。不満がありませんから。


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ゲーム中、真剣な顔

 子どもがいるから、朝きちんと起きて三食きちんと食べさせて、食事のマナーもきちんと教えて、きちんときちんと注意して。そんな優秀なお母さんがたくさんいると思います。でも自分の中の自然に耳を傾けると、そうしたいのではなく、そうしなければならないと思っているのではないでしょうか。もっと寝ていたい、ダラダラしていたい、何もしたくない、そんなときもたくさんあると思います。そんなときは、その自然に身を任すと気持ちがいいです。ちゃんとしなくていいです。ちゃんとって何だと最近よく考えます。「おうち森のようちえん」は大人も子どもも気持ち一つですぐに入園できます。随時受付中です。


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人形を並べて満足げな次男

 

何でもない日おめでとう!

こんにちは。今日は「お誕生日」についてお話しします。先日23日は次男の2歳のお誕生日でした。当日は夫の実家でお祝いしてもらい、昨日25日は私の実家でパーティをしてもらいました。大切なわが子が生まれた特別な日に、大好きな家族たちとお祝いをしてとても嬉しい時間を過ごすことができました。


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何でもない日おめでとう

生まれた日は特別な日です。ずっとずっと大切にしたい日です。でも、何気なく過ごす毎日も、二度とない日です。私は不思議の国のアリスが大好きなのですが、その中に「何でもない日おめでとう」というフレーズがあります。「気違いのお茶会」という、一年で一日だけのお誕生日を祝うよりも残りの364日を毎日祝っちゃおうという楽し気な場面です。一年に一回だけのお誕生日を祝うのも素敵ですが、毎日が特別という意識があれば、それもまた毎日楽しいですよね。
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いつか思い出す宝物

長男は4歳、次男は2歳になりました。こんなに小さくて可愛い子どもたちと過ごせる時間は限られていて、あっという間に過ぎ去ってしまうのだと思います。忘れたくないと思いながら、長男が2歳だったときのことはすでにおぼろげです。あっという間に大きくなって、私の元を離れていくと考えると毎日べったりとともに過ごしている今は本当に貴重です。

長男が好きなことを好きなだけするように毎日過ごそうと決めてから、長男はとても大人びてきたように思います。何をするか自分で決めるようになりました。私が勝手に何かをすると「おれが決めるの!」と言われてしまいます。朝は勝手に起きて、一人でゲームをつけて、いつまでするのかも自分で決めます。今日はどこに行くかも私と相談して、自分が行くと決めた場所には積極的に出かけます。私が時間配分を決めていたときは朝の9時半には外に出るようにしていましたが、彼に任せると、大体家を出発するのは11時ぐらいです。

遅くなったなとは思いますが、その生活に変わって気がついたことは、彼のペースで過ごしても何が問題というわけでもないということです。彼の時間は彼のものなのです。立派に内面が育ってきて嬉しい反面、もうママは用済みだなと感じることが増えてきました。4歳にもなれば、ほとんどのことは自分でできます。このスピード感を持って、あっという間に私の手を離れてしまうのだろうと思います。長男、次男とべったりと過ごす日々は、きっと私の生涯の宝物になります。いろんなことを忘れてしまうけれども、思い出すとほっこりとあったかい。そんな宝物です。


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でも、それにすがっていくのは情けないので、私は私の生きる道を歩んでいきたいと思います。寝たいだけ寝て、何もしたくないときは何もしない。やりたいことは、思いっきりやる、自分の中の自然と向き合うことを徹底した自分の生き方をみつけていきます。いつも元気でいる必要はなくて、元気がないときは「あー自分は今、元気がないんやなー」と受け入れてごろごろ過ごす。私自身がそんな風に生きている姿を近くで見ることで、長男、次男が「あ、大人もこんなにダラダラしてていいんだな」と安心して自分の人生を歩んでいくでしょう。

今の私が力を入れていることは、長男次男のやることに一々口を挟まないようになることです。口をぎゅーっと噛みしめて、モゴモゴしながら、口の中に言いたいことを留めるように修行する毎日です。私の先回りしないその我慢が2人の内から言葉や気持ちや行動を引き出す瞬間があります。その瞬間は最高です。

私が力を入れているもう一つは、自分の思いをこのブログに書き綴ることです。毎日彼らと過ごしていろんなことを考えます。人間は毎日1000個くらいモノを考えるそうなので、すぐに右から左へと消え去っていきます。毎日流れていってしまうその気持ちを捕まえて、ここに言葉として残していく作業は自分の気持ちを形づくることができます。子どもたちが育っていくことにじっくりと寄り添いながら、自分の思いを言葉にする日々は、のんびりとまーるくてやさしいです。こんな風にゆっくりと何気ない毎日を大切に、積み上げていくことが今の自分の豊かな生活です。今日も、何でもない日おめでとー!


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ふりかえらずに、そのまま行け!

こんばんは。今日は「そのまま走っていけ!」という話をします。昨日、来年から長男が通う幼稚園の育児教室の日でした。先日、幼稚園の先生とお話しした際に、育児教室は自由参加ですが、よかったらぜひ来てくださいと言われていました。私は朝から長男に今日は幼稚園で遊べる日だから行こうかと問いかけると、長男は「いかない」と言いました。何度か同じ問いかけをしましたが、答えは同じでした。私は先生からぜひ来てねと言われると、どうにも行かなければならないような気がしていましたが、長男には関係ありません。特に理由などなく、行きたくないから、行かないだけです。なんかもう、素晴らしいな君はと思いました。すぐに、しなければならない思考に陥る私は、長男の言動を見ていると自分はいろんな見えないものに縛られているなとつくづく感じます。

「好き嫌いしてはいけない」のか

今日の朝のことです。長男は起きた時から、作るグミを食べたいと言っていました。私は朝ごはんを食べてからにしようと言うと、長男は了承しました。そのあと、長男はヨーグルトを少しだけ食べて、すぐにグミが食べたいと言いました。私はそこでグミを渡せばよかったのに、あまりに少ししかヨーグルトを食べなかったことに腹が立って、ご飯もちょっと食べてから!と白いご飯にふりかけをかけて出しました。すると、長男は泣き出してしまいました。しくしく泣く長男の姿を見て、やってしまったと思いました。私の思いを押し付けてしまったなと反省しました。長男は朝、ヨーグルトしか食べないこともよくあります。いつものようにヨーグルトは食べて、当初のご飯を食べてからという約束は守ったのに、お菓子を食べたいと言ったことに私は腹を立てて、白いご飯も食べなさい!と押し付けてしまいました。私はごめん、ごめんと謝って、みんなでグミを作って食べました。私は「ご飯をたくさん食べなければならない」に縛られていました。好きなものを好きなだけ食べたらいいのに。


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↑体に悪そうな作るグミをニコニコ作る

 

「好き嫌いをしてはいけない」と教わってきました。何でもまんべんなく食べなくてはいけないと。人はみんな違って、味覚ももちろん違います。なのにどうして、好き嫌いしてはいけないのか。好き嫌いはあって当然です。好き嫌いするところから個性です。大人は好きなものを食べて、嫌いなものは食べません。私は納豆が嫌いなので食べません。でも、子どもには嫌でも一口食べなさいという大人という存在がいます。おかしいですよね。

日本には我慢を美徳とする文化があります。やりたくないことでも我慢して、がんばって、何かを成し遂げることが素晴らしいと信じられています。しかし、私はそうではないと思います。がんばらなくてもいいです。無理をしていれば、どこかにイライラが現れて歪んでしまいます。楽な方へ、楽な方へ逃げて逃げてすればいいです。無理して成し遂げて何が楽しいのだろうかと感じます。楽しいから、やりたい。しんどくても、大変でも、楽しいからやりたいというなら話は別です。そんな風に、やらずにはいられない何かに出会うまで楽な方へ歩き続ければいいと思います。

思わず走り出すという勢いがいい

子どもは何かに向かって、思わず走り出していきます。私はあの姿が大好きです。湧き上がるワクワクに思わず動き出してしまう姿が輝いて見えます。私は頭が固くて、いろんなことを考えて、考えてしないと動けないことがよくあります。でも、子どもたちは心のままに動き出すことにためらいがありません。それは本当に輝かしくて、素敵です。だから、子どもはそのままでいいんです。


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大人が何かを教えることをしない方が、子どもは自然に育っていくのではないかと最近思っています。何かを無理に教えようとするから、反発があって、お互いにイライラが生まれます。子どもが自然に育っていくのを邪魔しているのは大人、ゆがめていく、何かの形にはめていくのは大人です。思わず走り出す気持ちをずっとなくさないでもらいたいです。そのために、大人はただ見守っていればいいのだと思います。放っておくのではなく、見守る。ずーっと見ているんです。口は出さずに、子どもがどうするのか見守る。「親」という漢字は木の上に立って、見守ると書きます。それが親の過酷な修行です。この漢字考えた人はすごい。

私の森のようちえん的な育児は毎日修行の真っただ中です。押し付けるな、押し付けるなと思いつつも私はすぐに口を出す親です。こんな口を出しすぎる親の言うことなど聞かず、そのまま走っていけ!と思っています。


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